国際交流基金の「技術とフィクション」についてのプロジェクトの伊藤亜紗さんの講義。このプロジェクトは、来週、大阪大学の石黒研究室への視察があるのだけど、大阪までついては行けないのでぼくにとってはここで終わり。
内容の前に形式的なこと。伊藤さんの講義は他のどの講師とも違った感じだった。コミュニケーション型というのかワークショップ型というのか、目の前の人に自分の考えや知識をフラットに伝えるというより、パフォーマーとして、講義という場において、ある経験を作りだそうとしている感じ。語りかけの雰囲気から違う。こういうやり方もあるのか(ぼくには絶対真似できないけど)と思った。というか「先生」というのは普通こういう感じなのか。
●環境から意味を取り出してくる装置が身体であるとすれば、身体の条件が異なれば、環境からの「意味」の読み込み方が変わる。例えば、目が見えない人は世界をどうやって「見て」いるのか。この時、「見えない人」一般を考えるのではなく、「見る」やり方は一人一人それぞれ異なると考える。例えば、見えない人は触覚や聴覚が鋭いというのは紋切り型で、そうである人もいるし、そうでない人もいる。
目の見えない人が「見る」ためには三つくらいの方法がある。(1)別の感覚を使って見る。(2)道具を使って見る。(3)言葉で見る。(1)音の反響の仕方で空間がつかめる人、あるいは、匂いが地図上の目印になる人など。(2)白杖の他に、スマホのアプリなどもある。テキストを朗読してくれたり、買い物をしていて賞味期限などを知りたい時、カメラで撮影するとそれを見た「見える人」が電話で答えてくれるアプリもある。意外にも点字はそれほど一般的ではない、と。
(3)が興味深い。生まれつき見えない人にも好きな「色」があるという。その時、例えば「赤」は、イチゴ、唇、炎など、「赤い」と表現される様々なものに共通するなにかしらの性質として把握されている。「赤」とは赤のクオリアではなく赤という言葉の使われ方だ、という、分析哲学的な経験を生きているとも言える(しかしそこでも、なにかしらのクオリアは生じているはずだと思う)。「赤」は概念的に把握されているから、「赤と黄色を混色する」いうことは「机とイスとを混ぜ合わせる」と同様に理解できない、と。逆に言えば、我々が「赤と黄との混色」という「概念」を理解できるのは、それを「見た」経験があるからだ、と。
(例えば、ウナギと犬という異なる概念を混ぜ合わせた「ウナギイヌ」を想像することが可能であるように、赤と黄の混色を考える---構想する---ことも可能ではないか、という気もするのだけど。ああ、そうか、赤と黄色の混色が「アカキイロ」というイメージになってしまうと、それと「オレンジ」という概念とが食い違ってしまうのか。)
見える人と見えない人とが一緒に美術館で絵を見て、見えているものついて話をするというソーシャルビューイングという実践をしている、と。そこでは「絵を観る」という経験が、(ここでも分析哲学的な)言語ゲームとして、言葉によって形成され、言葉のやりとりのなかで変質してゆくという過程が観察される、と。
(ここでは、見る経験---客観的描写ではなく主観的解釈---が言葉によってやりとりされる。)
見えない人の「経験の構成」のされ方も興味深い。見えないがゆえに、物を二次元的(視覚的)にではなく三次元的(空間的)にイメージする傾向がある、と。例えば地下鉄の路線図を立体的にイメージしたり、富士山を一般的な富士山のシルエットとしてではなく、立体的な「山」としてイメージする、など。
見える人が「迷子」になる場合、自分がいる位置や方向が失われるとしても、周囲にひろがる空間自体が消えるわけではない。しかし、見えない人が迷子になる時、周囲の空間の情報のすべてがロストするという。完全に空間がなくなる、と。その時、バイクや車が走ってくるとその音の動きによって、何も無かったところに「道」が現れる。見える人にとって、物は永続的に存在するが、見えない人にとって「物の存在」は時間とともに希薄になってゆくという。さっきテーブルの上にあったコップの存在は、五分たち、十分たつにつれて、(誰かが移動させたかもしれないので)あやふやになってゆく。遠くまで見えるということは、そこに到達するまでの「長い時間」が存在するということでもあるが、近い物しか確かめられない見えない人にとっては、時間のスパンも短くなる傾向がある。
見えない人が「天ぷら定食」(天ぷらの器があり、ご飯、つけ汁、汁物、漬物などの器や箸が配置される)を食べる時、まず、テーブルの上にある抽象的な物の様々な大きさや形の配置としてそれが把握されるという。そして、そのうちの一つにクリックするようにアクセスすると、そこに「天ぷら」という概念が現れて、もう一度クリックすると、さらに詳細な「エビ天」という概念があらわれる、のだという。世界が一挙に現れるのではなく、階層構造になってそれが継起的に深まるようにあらわれる。
見えない人でも、脳の視覚神経の自然発火によって抽象的な形が見えることがあるという。それは「痒み」のようなものとして認識されている。夢としてそのような像を見ることもあり、その場合、夢から覚めることで(視覚的)世界が消えて真っ白になるという、見える人とは逆の感覚をもつ。もともとは見えていて、事故などによって見えなくなった人にとって、見えなくなるとは「明暗の区別がなくなる」ということだ、と。明暗の区別がなくなるという状態をイメージするのは難しい。
話を聞いていて思ったのは、見えない人は、自分の心の内側と外側とをどう区別しているのだろうかということだった。想像された空間と現実の空間との区別。見える人にとって、見える物が現実の物であり、見えない物が想像上の物であり、この区別は「見る」ことによって常に確かめられ、はっきりしている。ぼくは(おそらく伊藤さんとは違って)「見える」ものが「在る」ものであるという確信の形成は、(歴史的・制度的なものというより)生物学的(生得的)なレベルで人にはけっこう強く効いているんじゃないかと思っている。だから、見えないと、現実的な空間と想像上の空間とが、常に混ざってしまうように思われるのだけど(それはかなり恐ろしい感じだと思うのだけど)、この混乱はどのように避けられているのだろうか。