●ステーションギャラリーにあったモランディの静物画は、影が出ていないものが多いが、影が出ている絵は、最初期の作品を除いて、画面に向かって右側に出ていた。つまり、左側から光が当たっている。モランディの眼はおそらく、影が右側に出ていることを求めている。しかし、版画の作品では、影が出る場合左に出ている。ということはおそらく、モランディは、「版画を刷ると像が左右反転する」ということを考慮せず、普通に絵を描く時と同じようにモチーフを組んで、それを見てそのまま描いているのだろう。この事実は、モランディの眼(と手)が右側の影を求めているという考えの補強となり得る。モランディにとって版画は、いつもの「眼癖(手癖)」に対して出来上がった像が反転する新鮮さを経験する(あるいは、確認する)ものとして必要だったのではないか。
ということで、何かを発見した気になっていたのだが、さらっと描かれた水彩の作品で、影が左側に出ているものが四点あって、あ、そうとも言い切れないのかと思った。
でも、なぜ水彩でだけ影を逆に描くのだろうか。眼癖としての右側の影があり、その反転像として版画があり、版画の反転像を受けて水彩がある、ということなのだろうか。
●坂中さんのブログを読んだら、モランディ展の最後にあった映像資料で(ぼくは観ていない)、「ピエロ・デラ・フランチェスカやジオットが好きで、それらと自分とをセザンヌが媒介した」という発言をモランディがしているという。いや、もう、あまりにもそのまんまで、分かりやすすぎて(納得出来過ぎてしまって)びっくりする。しかし、そこで「分かった」からといって、はい、おしまい、とはならない。そういう「分かり方」では終わらないものがある、というのが重要なのだなあと思った。
というか、この「分かる」というのは、「そこで確かに化学変化が起こった(何かが生まれた)のだ」という、その感じを生々しく伝えている、ということだろう。
http://d.hatena.ne.jp/Ryo-ta/20160306