松濤美術館に行ったら休みだった。
東京オペラシティの、さわひらき展が面白かった。個々の映像を単体の作品として観るとそんなに面白くはないのだけど(趣味としては嫌いではないけど、シュルレアリスム通俗的解釈みたいな感じでちょっと恥ずかしい)、インスタレーションと考えるとても面白い。特に「ラジエーターの後ろ/配管」としてまとめられている空間が素晴らしかった。「Envelope」という作品の鏡の使い方もとても面白い。
単体の映像作品はそんなに面白くないと書いたけど、趣味としては好きな感じなので、展示の前半にある映像作品をじっくりと観てしまって、「ラジエーターの後ろ/配管」にたどり着く頃にはちょっと疲れてしまっていて、あー、まずはじめにここに来ればよかったと思ってしまった。
ラジエーターの後ろ/配管」では、映像が空間のなかの様々な「位置」にいくつも配置されている。それらは、撮影対象、ループする時間、フレームのサイズ、上映形態(投射/モニター)、テクスチャー(モノクロ/カラー、解像度など)、作品形態(単一フレーム、対、三幅対)などがそれぞれ異なっている。それらは、どれか一つのフレームを見ている時も他のフレームが目に入るようになにっているし、しかし、すべてのフレームが同時に目に入る位置はない。空間には台や棚も設置されていて、その上にモニターやドローイング、歯車のようなもの、鍵束のようなものが置かれている。空間は薄暗くて、台や棚やものたちも強く存在を主張する感じではないので、まず映像の存在(?)が強く意識される。
それぞれの映像(フレーム)は、独立しているのと同時にかすかに関係してもいる。高い位置に、弧を描いて跳ねるように走る女性の映像が二つ、少しのズレをもって並置されて投影されている。この二つのフレーム間のズレは、この場所に置かれている複数のフレームたちの、関係と乖離とを示しているようにも感じられる。一方、台の上には、コマのようにくるくる回転するベルの映像を映し出す小さなモニターが置かれていて、「回転」という意味では女性の映像と同期しつつも、そのフレームサイズやリズムや内容(人/モノ)は異なっている。
また、展示空間に入って最初に目につく高い位置には、ネガポジ反転した、鳥の群れが飛んでいる粗めの解像度の映像が投射され(この映像はぼくがよく観る夢にそっくりなのだが…)、その右側の壁には(最も大きなフレームサイズで、解像度も比較的高い)部屋のなかで飛行機が飛んでいる映像が投射されている。鳥の映像がネガポジ反転しているのと同様、この映像では外と内が反転し、室内に飛行機が飛ぶ(飛ぶものという意味で同期している)。反転ということで言えば、この空間では実在物より映像の方が存在感がある。あるいは、台の上では、回転する(回転し続ける)ベルの映像と、歯車のようなもの(実在物)が対比的に置かれている。本来は回すものでなく、また、回したとしてもすぐ止まってしまうベルが映像としていつまでも回り続け、回り続けるものであるはずの歯車が、(本来あるべき場所であるはずの)機械装置から切り離されて静止している。
もう一つの台の上には、動くことによって身体像が微分的に増殖する女性の映像が映るモニターとドローイングが置かれている。この空間全体が、増殖する多数のフレームに満ちているのだが、この映像においては、フレームではなくフレーム内のイメージ(身体)の方が増殖している。また、壁にはモニターが縦に三つ並べて設置してあり、それらは別々の映像を映し出したり、関連し合ったり、また、三つで一つのフレームになったりする。
この空間のなかには、複数のそれぞれに孤立したフレームがあり、イメージがあり、リズムがあるのだが、それが時に交錯したり反転したり重なりあったりする。それも、例えばフレームA、B、Cの三つがあったとして、AとBとが関係する(関係しズレる)やり方と、BとCが関係するやり方と、AとCが関係するやり方はそれぞれ違う、という形で関係する。関係のすべてを俯瞰する位置はない。それでも、フレームABCを共立させる「現実空間」というものがある、とは言えるかもしれない。しかし、二次元である映像と映像、映像とモノとが「現実(三次元)空間」で関係する、と言えるだろうか。三次元空間のなかに複数の二次元的フレームが「配置」されている時、その空間は既にバーチャル化されていて、単純に現実=三次元とは言えないのではないか。
この空間で観者が経験する空間とは、あるフレーム(イメージ、内包時間、リズム、サイズ、テクスチャー)から別のフレーム(イメージ、リズム…)へと注意が移動することによってあらわれる空間であり、それはいわゆる三次元的な現実空間とは別のものだ。つまりここには、様々なフレーム(イメージ、内包時間、リズム、サイズ、テクスチャー)それぞれの個別の存在と運動があり、その重なりとズレと乖離とがあり、それらの複雑な絡まり合いが潜在的な元空間のようなものをつくっていて、そこにそれぞれの観者がやってきて、糸を手繰るようにフレーム間を移動し、同期やズレや乖離を経験してゆくことで、バーチャルな空間がたちあがってくる、ということだろうと思う。
●「Envelope」という作品は、鏡像反転して投射されている映像を、鏡を通して観るという作品だけど、その時、鏡のフレームのなかには、映像を観ている自分が映り込んでしまう。つまり、映像(虚)とそれを見ている人(実)とが同一のフレームのなかに入り込む。それによって虚実の差が消える。
ここで面白いのは、鏡は三枚並んでいて、映像を観るための椅子は端の二枚の鏡の前にしかない(つまりこの作品は同時に二人、あるいは二組しか観られない)。なぜ真ん中の鏡の前には椅子がないのかということは椅子に座ってみれば分かるのだけど、目の前の鏡には映像とそれを見る自分が映っているのだが、真ん中の鏡は端の二枚より後ろに下がって設置されて、正面の鏡を見ていても視線の端にに入るようになっていて、そしてそこには反対側の端の鏡の前で椅子に座って作品を観ている人が映る。つまり自分と同じものを見ているはずの「別の人」が鏡に映っている(当然、向こうもこちらが見えているだろうと意識される)。つまりここで作品を観る「他者」までも虚実の区別をなくしてしまう。それによって、この世界のこの場のまるごとに関して、虚実の違いの意味の違いをなくしてしまう。その他人は、別の世界で同じことをしている人、でもあるとも言える。これは「装置」として相当面白いと思った。
(二人称―鏡像から三人称が生まれる装置、とも言えるかも。)
●この展覧会全体の印象は、「内の内は外、外の外は内」という感じだ。