●カラックスの『ホーリー・モーターズ』は、様々な人の生の断片(様々な位置)を、ドニ・ラヴァンという一人の特別な身体(と、馬鹿でかいリムジン)を媒介とする(あるいは根拠とする)ことで横断的につないでゆく話だとも言えるのだけど、ぼくが興味をもつのはむしろその逆で、一人の人物とされる一つの場所における「わたし」が、「わたしと意識される」その度ごとに、異なる身体としてたちあがってくるというようなことだ(異なる身体であって、異なる人格ではないです)。それを「お話」として、例えば十人一役のようにして映画にするということではなくて、まさに「現実のわたし」をそのようにして現象させるにはどうしたらよいのか考え、いろいろ試してみる、というようなことだ。
●坂中亮太さんのブログで紹介されていたMark Guilianaのドラムソロの映像を何度も何度も観てしまう。
http://www.youtube.com/watch?v=CbZ23rHKO2w
坂中さんもブログに書いているけど、まず、サンプラーシーケンサー、あるいは音楽制作ソフトなどを使うことで可能になる、(演奏の)身体性を無視して耳(というより脳)の快楽に従って追及された、異様に複雑で速くしかも変化してゆくリズムや、現実空間ではあり得ない立ち上がり方や切れ方をする多様なテクスチャーや音色を用いた音楽の展開があって、しかしそれはおそらく、物理的な身体とは別のバーチャルな身体性を脳のなかに生み、そしてそれが再度、物理的身体を使ったダンスや、物理的な身体と楽器による演奏のなかに差し込まれ、あらたな演奏する身体を構成する、という風に言えるのではないか。いや、きっとそんな感じなのだろうなあ、ぐらいのいい加減な根拠で書いてますが。
(映像を観ていると、演奏する姿そのものが、高度なダンスパフォーマンスのように見える。というか、ぼくはそのように観てしまう。おそらく、ぼくの感じ方はまったく「音楽的」なものではないのだろうと思う。坂中さんがブログに書いていることを台無しにしている気もする。)
http://www.youtube.com/watch?v=WXH8g1M2Q78
テクノロジーによる身体からの離脱があり、しかしその成果が再度身体に貫入され、しかしそれはたんにテクノロジーの成果の模倣というだけでなく、おそらく身体の領域に引き込まれたことによる何かしらの変化が生じ、その変化をまたテクノロジーが取り入れ、別の方へ発展させるかもしれない。ぼくがイメージする、「同じわたし」が「その都度異なる身体としてたちあがる」というのは、そういうことだ。
(人類の身体のなかに貫入してそれを変化させた――そして相互変化する――最初のデジタルテクノロジーは「言語」なのではないか。)
●坂中さんのブログ。
http://d.hatena.ne.jp/Ryo-ta/20140211