●例えば、もし目の前で子供が溺れていて、近くには自分一人しか人がいないとすれば、その子供の生き死にに対する「わたし」の責任はとても重いものとなる。しかし、例えば都知事選挙の結果に対する都民一人当たりの責任は、総有権者数分の一に過ぎない。それは、まったくゼロではないとしても、ほぼゼロに等しいとさえ言える。選挙(の、少なくとも「結果」)は、統計の対象であり、そうであるならば、個々のレベルでの「主体的選択」にはあまり意味がなくなってしまう(例えば、気体の分子一個一個のレベルの振る舞いはランダムで予想不能だとしても、ある大きさをもつ全体の状態は十分予想できる、というような)。にもかかわらず、そこに何かしらの重い責任があるかのような幻想が成り立つことによって、一人一人が政治的主体となり得、おそらく選挙という制度はそれによって成り立っている(過剰な責任を感じるということは、実際以上の能動性を幻想するということでもある)。これは、政治を支える重要な幻想だろう。でもおそらく既に、それには無理があると多くの人が気付いてしまった。そんな時に、一人一人が政治的主体として政治的意識を向上させなければいけないと説いたとしても、それはなかなか難しい。
●いや、たとえ分母(総有権者数)が十だろうと一千万だろうと関係なく、誰を支持するのかを決めるという行為には関しては等しく主体的な責任がある、と言うべきかもしれない。しかし、その時の責任と、選挙の結果○○が当選してしまったという事実に対してもつべき責任とは違う、とは言えるのではないか。わたしは責任をもって××を選択し、投票した。しかし、○○が当選した。だがいずれにしろ結果に対する責任は、総有権者数分の一であり、ほぼゼロに近い、と。ならばしかし、分母が一千万だった場合、「わたしは××を支持する」と独り言をつぶやくことと、実際に××に投票することとの間には、実質どれくらいの現実的効果の違いがあるのだろうか。あまり変わらないのだとすれば、ただ、心のなかで(責任をもって)「××支持だ」と決めるだけで、投票しなくても良いということにならないだろうか。わたしは、選択に関しては自由と能動性をもち、故にそこには責任を負うが、現実的な効果に関しては影響力をもたず、故にそこには責任を負わない(故に投票に行かない)。こう考え行動する者は、立派な政治的主体であろう。この考えは間違っているのか?
●あるいは、政治が現実(現実的効果)への積極的なはたらきかけだとするなら、これでは政治とは言えないのか?個人的な思想信条のレベルでしかないと言えるのか?しかしそうならばここでもまた、選挙(投票)がほぼ政治とは言えないものだということになってしまう。
●政治的意識はおそらく、まったく繋がっていないわけではないとしても、ほとんど繋がっていないとは言える、わたしの行動(選択)と集合的な結果とのこの微弱な因-果ラインを幻想性(想像力)によって補強することで可能になる。というか、その想像力(想像力の作用)そのものこそを政治と言うのではないか。例えば、国家や革命という、そこに内包されたいと願えるような大きな理念によって、あるいは、デモや演説における高揚によって、あるいは、日々の「運動」の手ごたえによって。そのような実感と結びつく政治的想像力が、政治的意識を可能にする。だとすれば政治とは想像力の問題であり、あるいは、人生における想像力の作用の問題だということになるのではないか。
だが、統計的なリアリズムの圧倒的な作動は、政治に対する想像力の介入を断ち切るだろう。客観的(統計的)にみれば、選挙において、個としての「わたしの行動(選択)」と「集合的な結果」との繋がり(それへの影響)はほとんどないと言っていいレベルなのだとすれば、「わたし」における(投票による)「政治」への介入の余地もほとんどないということになる。だから、選挙に行っても意味がない、と。そうでなければ、結果を出すために他者を道具とみなして「動員」の効果ばかりを考えるという方向に行く、とか。
●だが、統計の結果があらたな共同性(幻想)を生み出すこともあるだろう。例えば、出口調査の集計によって明らかになった意外な「二十代の田母神支持層」の存在が、「二十代の田母神支持層」というあらたな共同性(想像力)を生み出す。これは、統計が与えてくれた(データ提供に対して返してくれた)一つの答えであり、物語であろう。でもこれは、統計の「結果」が与えてくれた(あるいは、それによって補強された)物語であり、つまり答え(わたしの意思・選択)は「わたし」が出すのではなく向こうからやってくる。「わたしの投票」は主体的選択ではなく、このような答えを導き出すための「データの提供」に過ぎない、ということになってしまうだろう。とはいえここには、多から個へのフィードバックがあるとは言える(集合知こそが「わたしの意思」を教えてくれる?)。選挙に可能性―意味があり得るとしたら、こういうところなのかなあとも、思う。
(別に田母神支持って言ってるわけじゃないです、念のため。)
●いや、だから、投票とはアンケートのようなものであり、ユーザーのユーティリティ向上のためのデータの提供でしかない、ということになれば、投票率はもっと上がるのではないかという気もする。
●しかしこの時、政治的な主体に対してなら「批評」は有効だとして、では、統計によってはじめて露わになる集合的な選択(そのフィードバックとしての「わたしの意思」)に対しても、それが有効だと考えられるのだろうか?