●紙に一人の人物の全身像を描く。すると、何も描かれていない余白の部分は、その人物に合わせたスケールの空間を持つ背景として立ち上がる。というか、見る側がその余白にそのようなスケールの空間を(ほぼ自動的に)読み込む。その隣に、人物と同じくらいの大きさの「右手」のスケッチを描き込む。そのときも余白部分は、右手の大きさに合わせたスケールの背景空間になる。一枚の紙に描かれた二つの像は、その背景にそれぞれに異なるスケールの空間を持つことになる。この二つの異なるスケールの空間は、相手を否定することなく、双方を共に受け入れる背景の曖昧な広がりの中で共存する(虚の透明性とはちょっと違う)。視線が人物を捉えているとき、背景はそれに合わせたスケールを持ち、右手に視線がいっているときは、右手に合わせたスケールの空間になっている。二つの異なるスケールがシームレスにつながっている。
これは、背景が抽象的(余白)であることの効果だ。抽象的な空間は、「見立て」によってどのようなスケールの空間でもありえるし、可変的、流動的で、かつ、異なるスケールの共存も可能だ。このことは、三次元空間でもある程度は成り立つ。たとえばホワイトキューブに近い抽象的な舞台で行われる演劇では、狭い劇場を広大な草原として見立てることもできるし、小さな人形やおもちゃの家を、等身大のものとして「見立てる」こともできる。さっきまで生身の俳優が演じていた「わたし」が、家に入った途端、おもちゃの家のなかの小さな人形へと移行しているとしても、観客はそれを大した抵抗なく受け入れるだろう。逆に、巨大な靴を模した装置が一つあるだけで、目の前の生身の俳優が「小人」であることも、観客は簡単に受け入れるだろう。
「簡単に」と書いたが、実はれほどは簡単ではないのかもしれない。映画におけるクローズアップからロングショットへのモンタージュよりは、演劇における生身の俳優からおもちゃの人形へのスケールチェンジの方が、大きな負荷を観客に要求するだろう。負荷というか、「見立て」の組み直しは、たんなる視点の変化よりも、大きな柔軟性の発動を、観客の身体に要求する。スケールの見立ては、ただ「意味」のレベルでだけ働くのではなく、身体のレベルでも働き、身体のレベルから連動される、認知から行動への様々な通路にも影響を(揺さぶりを)与える。視点の移動は、ただ身体の位置が移動するだけだが、「見立てのスケール」の組み替えは、身体のありようそれ自体の組み替えにつながる。
(今、ここに、「この大きさ」として存在している「わたしのこの身体」をいったん括弧にくくる必要がある。)
「背景が抽象的であることによって可能になる複数の異なる見立てられたスケール間の移動や共存」によって人の身体の内部に湧き起こる何かしらの動き。そこで身体の中で起こっていること。組み替えられている何かしらのもの。この部分が動かされているときに、身体のなかで浮かび上がってくる何かしらの情動。ここに何か重要なものがあるという直感がぼくにはある。もし仮に、ぼくが演劇を作りたいという欲望を持つとすれば、演劇というメディウムが「この部分」を動かそうとするときにとても有効に働くのではないかという期待を持つからだろう。
(リテラルな身体のスケールの変化の経験、たとえばVRなどを使って、あたかも自分の体が実際に大きくなったり小さくなったりしているかのように感じさせるイリュージョンを作るよりも、むしろ「見立て(=背景の抽象性)」を挟んですることの方が、より身体に強く、大きく、深く響くのではないかという予感を持っている。)