熊谷守一美術館に行ってきた。
クマガイが背景を具体的に描かない時に用いられる背景の単色の広がり、多くの場合に黄土色(オーカー、シェンナ)で、時にグリーンだったりブルーだったりピンクだったりもするあの広がりは、マティスの「赤い部屋」や「赤いアトリエ」の赤の広がりと同様に、空間以前であり空間以上でもあるようなもの、二次元であり、三次元であり、四次元でもあるようなもので、ヴァーチャルな原空間としての平面性であるように思われた。
平面的な絵画の単色の広がりは、画面の情報量としては少ないのだけど、その情報量の少なさを、脳にどのように補填させるのかという仕掛けとして用いられているのではないかと思う。画面そのものの情報量を上げるのではなく、脳をより複雑に働かせるために省略を行う。脳のなかに複雑な幻影をつくりださせるための、単純な装置というか。
セザンヌの絵は、脳に複雑な共鳴状態をつくりだすために、画面も複雑になってゆく。しかし、それ以上複雑にすると、人の感覚はその複雑さについてゆけなくなって、オーバーフロー状態になり、複雑な共鳴ではなくホワイトアウトになって、崇高のような感覚に至ってしまう。そこでマティスは、画面そのものをセザンヌ以上に複雑にすることは避けて、脳を複雑に作動させるために有効な省略や短絡を考え、その結果として画面の平面化を模索していったのではないか。
同様の試みがクマガイにもみられるように思う。若い頃のクマガイの絵はとても上手い。しかし、四十歳代くらいの作品には迷いがみられる。迷いというか、様々なことを考え、様々なことを試みているのだけど、やろうとしていることが複雑すぎて上手い着地点が見つかっていないという感じになる。というか、絵画ではできないことをなんとかしてやろうと試みているようにみえる。そういうところが面白いとも言えるが。
この、上手い着地点がみつからない状態は、五十歳代になっても続いている感じがする。そして、五十歳代の終わりくらいから六十歳代にかけて、少しずつその着地点がみえてくる感じになってくる。そしてその着地点とは、画面を複雑にしてゆくというより、むしろ単純化することで、そこから得られる感覚の方を複雑にしてゆくという方向になっている。
(4Kから8Kにかわる、というのとは別の解像度が問題になる。)
(たとえば、リミテッドアニメーションの面白さとか、あるいは、背景が3DCGでバリバリにつくり込んであるのに、キャラのアップになると、画面の多くの部分がフラットな肌色の広がりで占められることのギャップの面白さ、とか。)
●それから、クマガイの場合、絵の小ささというのも重要だと改めて思った。これはマティスの大画面化とは方向が異なる。クマガイの絵は、空間に没入するようなものではなく、もっと非身体的な感じがする。非身体的というか、物理的なこの身体とは別のヴァーチャルで非スケール的な身体が要請されているというか。眼という器官がないのにイメージが存在する、とか、肌がないのに触覚だけが存在する、みたいな。そういう、ヴァーチャルな感覚の構成によって、その都度空間が立ち上がる。眼で観て描いた絵じゃない、みたいな感じ。