08/02/27

熊谷守一はおそらく、天性の色彩家ではないと思う。初期の作品ではむしろ、かなり色彩を恐れているようにすらみえる。クマガイにとって色彩は常に、不安定なもの、妖しいもの、制御困難なもの、としてあるようだ。1917年に描かれた、「風」で、風によってしなっている木の背後に、うっすらと出ている虹の気持ち悪さは忘れ難い。
それは色が使えないということではない。前にも書いたが30年代中頃の薄塗りの風景画はまるでニース時代のマティスのようであり、このような薄塗りは相当なセンスがなければ出来ないだろう。しかし、同じ時期に描かれたヌードの絵をみると、色彩は不安定かつきわめて野暮ったいものとなる。(日本近代絵画によくある、勘違いした表現主義、勘違いしたフォービズムのようですらある。)例えばマティスのフォーブ時代のヌードであれば、画面全体としての色彩の位置が正確に決まっているから、人物の肌に赤や黄色が塗られていても、そこが鬱血していたり、黄色い絵の具が肌についているようには見えない。しかしクマガイのこの時期のヌードで、人体に赤が使われると、それが位置をもたないので、鬱血しているかのようであり、緑が使われると痣のようであり、白が使われるとぶよぶよ膨らんでいるようであり、結果、人体が死体のように気味の悪いものに見えてしまう。これはたんに作品として上手くいっていないということであって、これをすぐに、クマガイが礫死体や水死体を描いたことがあるという事実と結びつけるのは単純すぎるだろう。しかしここで、何故か人体を描く時だけ、色彩に対して冷静でいられなくなってしまうことには、何かしらの意味があるように思われる。そして、この時、画面を不安定にしているもっとも大きな要素が赤の使い方であり、しかし同時に、それはその後にクマガイの手法のキモとなる、(塗り残された)赤い輪郭線の使い方の萌芽となっているようにも見えて、両義的な感じだ。
●クマガイにとって、その初期から常に「赤」が問題であるようにみえる。それは赤というよりも、赤褐色、朱色、くすんだピンク、と呼ばれる方が適当であるような、強烈さよりも不安定さを感じる暖色である。薄塗りの風景画がマティスのようにすっきりしているのは、そこにほとんど暖色が使われていないということにもよるだろう。暖色が使われると、風景画でも薄塗りでは済まなくなって、塗りが厚くなっている。とりあえず赤と呼ぶことのできる不安定な暖色は、クマガイのウイークポイントであると同時に、初期から一貫した関心の中心にあるもののように思われる。(そしてとうとう、35年の「烏」で、画面全体を不安定な暖色が覆い尽くす成功した作品が描かれる。)そして、晩年のクマガイモリカズ様式で多用される塗り残された輪郭線は、そのほとんどが赤と呼び得る色彩によるものだ。かつて、画面を不安定にしていたもっとも大きな要因であった赤が、晩年の様式では、その位置の無さによって輪郭を示し、画面全体をつなぎ止めるようになることが面白い。
●タブローにおいて、塗り残されたネガティブな線としてある輪郭線は、クマガイの日本画では、筆で直接描かれた線としてあらわれる。タブローと日本画とのもっとも大きなちがいはおそらくここにある。塗り残された線でなく、筆で描かれた線であるから、この線はタブローの線よりもずっと画家の身体的な動きを反映するものとなる。日本画を描くクマガイは、身体の動きが直接線に反映されることの楽しさを味わっているかのようだ。身体の動きによって生まれる線が刻まれる舞台は、そこで身体を動かせるための、それなりの大きさが必要となる。クマガイの日本画の方が、タブローよりも一般にサイズが大きめだというのは、そのような理由だろう。つまり、身体の物理的なサイズとの「関係」によって、作品にも「サイズ」が生じる。クマガイは日本画において、タブローにおける「時間と空間の外にあるかのような、大きさがないかのようなイメージ」の強烈さを手放すかわりに、自由闊達に動く線のいきいきした躍動を得ていると思われる。これはこれで、非常に魅力的なものだ。
●どうでもいいことだけど、ゼロ年代ももうすぐ終わりという今になって、まさか「三浦さん」がゴミ出しの時に雪で滑って転ぶ映像をまた観ることになるとは思わなかった。