●六本木の国立新美術館セザンヌ展を観に行った。実は、美術館が休みの日に入れる協賛関係者用のチケットをいただける予定なのだが、その時のための下見というか、ならしというか、すいている状態の時にじっくりと観るために作戦を練るための様子見みたいな感じで行ってみた。というか、たんにそれまで待ちきれなかった。どちらにしろ、一度しか観ないということはないのだから。
量的にも質的にもかなりのものだった。今、これだけのセザンヌがまとめて日本にあるのだと思うと、気持ち的に受け止めきれなくてうなされてしまいそうなくらい。ぼくにとって、「絵画」とは要するにセザンヌマティスのことで、あらゆる問題がセザンヌマティスから発して、セザンヌマティスに返ってゆく、あるいは、セザンヌマティスを中心としてその周辺に配置される。セザンヌマティスは固有名ではなく、そういう特別な出来事であるのだ。
●個々の作品についてというのではなく、全体をさらっと観て感じたのは、「潜在的な青」の重要性だった(今日は主に晩年の作品をじっくりと観たので、その印象が中心になっていると思う)。絵の「層」という次元で、下の層にある鮮やかな青が上にかぶせられた半透明の層から滲みだしている。その滲み出てくる下層の青と、上から、輪郭線などとして画面上に散乱されているやや淡くなった顕在的な青との響きが、セザンヌの絵において重要な「深さ」という次元をつくりだしているように感じた。潜在的な青は、後期になるにしたがってその重要性と輝きを増すようだ。セザンヌにおいて、もっとも深い潜在性を表す色は青で、青から緑、緑から黄土色という順に顕在的になってくる(つまり、存在として安定する)ように思う。暖色は顕在化する力で、寒色(というか「青」)はすべての存在物に浸透する潜在性であるように思う。最も安定した色である黄土色が緑(植物の色だ)と関係することで、静物画において、飛び抜けた顕在化の力を表現する赤い果実へと発展する。しかしこの赤には、潜在性との紐帯を示す青がその背後に張り付いている。念のためだが、これは色彩の機能の話であってシンボリズムではない。あらゆる色彩は、配置、配合の割合、関係、リズムによって相互干渉的に機能するのだから(オセロゲームのように、一筆置くごとに全体の意味と力関係がだーっと書き換えられる)、そこから「青」だけ取り出す、ということは出来ない。青のトーンから導かれる響きがあり、緑のトーンから導かれる響きがあり、黄土色のトーンから導かれる響きがあり、それらが干渉し合ってどういう状態が出来ているのかということが問題なのだ。
潜在的な青は特に、後期の厚塗りの人物画(ヴォラールの肖像や庭師ヴァリエの厚塗りの方)において重要な役割をもつように感じた。ヴァリエの重たい濃紺の服の下に隠された鮮やかな青はなんと重要だろうか。そしてそれが、例えば顔の右側にある輪郭線の青と響くことはなんと重要だろうか。この潜在的な青の有無が、初期の不透明な重さ(厚塗り)と後期の(内に空を含むような)半透明の重さ(厚塗り)の違いなのだと思う。この潜在的な青の深さは、サント=ヴィクトワールなどの風景画では割と抑制されている(顕在的な淡い青が支配的だ)。その一方、庭師ヴァリエの薄塗りの方の作品では、潜在的な次元にあるはずの青が大幅に露呈されて(顕在化されて)いてたじろがされる。サント=ヴィクトワールを描く作品では、もっとも堅固な存在(石の山)である山が、ほとんど空と同化するかのような主に青みがかった淡い色彩で描かれる。最も安定した(フィックスされた)存在であるとともに、様々な潜在性の混合体である石の山と、絶えず流動する非安定的な大気の塊である空とが、反転的につり合っているのだと思う(石は重いが重力に逆らってそそり立ち、大気は軽いが重力によって山にのしかかる)。サント=ヴィクトワールを描く作品では、潜在的な青はさらに潜在化している(さらなる潜在性とつながっている)のではないか。つまり、実際に絵の具としては画面に塗られていない(そして、網膜によっては決して見ることの出来ない)潜在的な次元にある見えない青と、画面に塗られている青との響きが問題となっているのではないか。
決して見ることは出来ないが、それによって「見える」ということが成り立っている、「マイナス(虚)の感覚」としての潜在的な青を感じさせ(予感させ)ること。(層としての)顕在的な青と(層としての)潜在的な青との共鳴に導かれて、「見える」を成立させる「見えない」ものである(より一層)潜在的な青の響きを触知すること。セザンヌの絵における、そのような「深さ」の経験というものがあるように感じた。
●以上は、個々の作品を精緻に、具体的に、観察、分析した結果というのではなく、あくまで「印象(あるいは直感)」にもとづいた記述だ。ぼくは最近、印象がいかに重要かということを考えている。どのように、正しく、鋭く印象を得て、それをどのように正確に記述できるのかということ。印象が印象である限り、それはそれ以上分節できないし検証可能性に開かれていない。それはわたしとあなた(作品)の関係でしかなく、別のわたしとあなた(作品)にも当てはまるとは言う権利がない(「別のわたし」とは、他人であるかもしれないし、明日のわたしであるかもしれない)。そこに問題がないわけではない(「わたしはそう感じたのだ」と言い張るだけになってしまうかもしれない)。しかしだからといって、それを恣意的で主観的なものに過ぎないと言うことも出来ない。少なくともそれは「わたしとあなた(作品)の間」に一度は生じたのだ。印象は確かに胡散臭さを含む。しかし、そのような胡散臭さによってしか得ることの出来ない重要なものがあるということを、真剣に考える必要があると最近強く思っている。印象の、準-実在性みたいなこと。
いや、印象はそれ以上分節できないというのは間違いかもしれない。実は、印象こそが分節、分析されるべきものであるのかも。いや違うか、印象こそが分析を必要とし、それすることを促す、のか。そもそも、印象を得ることがなければ何も考えないし、考える必要もない、ということか。