●お知らせ。明日(7日)発売の「新潮」5月号に、「マイナス1、プラス1/福永信『星座から見た地球』と『あっぷあっぷ』のなかを「動いている」もの」が載ります。二度目の福永信論です。実はこれは一年半くらい前(『一一一一一』が出るよりもっと前)に書いたもので、とても力を込めて書いたものなので、ようやく日の目をみることになってうれしい。
それと、「群像」5月号に、『とにかくうちに帰ります』(津村記久子)の書評(「関係のなかで関係が考える」)を書きました。「群像」には西川アサキさんの随筆が載っていて驚いた。
●14日の西川アサキさんとのイベントに備えて、『魂と体、脳』を改めて読み始めた。まる一日かかって、第一部を読んだ。この本は「序」から、この袋にはもうこれ以上詰め込めないというくらいびっしりと詰まっている。でもまだここまででは序の口で、この本は後になればなるほど、どんどんハードになってゆき、どんどんすごい世界に入ってゆく。
http://www.100hyakunen.com/events/talk/20120312682.html
●昨日は、セザンヌ展の帰りにシュウゴアーツで「小林正人 LOVE もっとひどい絵を! 美しい絵 愛を口にする以上 2012, Spring」も観た。
http://shugoarts.com/archives/5298/
一見、「ひどい絵」風だけど、言う程「ひどい絵」じゃない。普通に美しい。というか、むしろ小林正人の作品としては分かり易い部類じゃないだろうかと思った。イメージが出現する力によってフレーム(支持体)が歪んでしまったという感じ。法則(メタ・地)と実例(オブジェクト・図)があるとして、実例のイレギュラーさの度合いによって法則の方が影響を受けて歪んでしまうというような特異な出来事の出現の力に伴って、一瞬、世界の底から垣間見えるイメージが定着されている、というか。そのような形で、イメージと支持体との不可分が成立している。そういう意味では、フレームの形によってイメージが決定される演繹的なフォーマリズム系のシェイプトキャンバス(ステラとかノーランドのような)におけるイメージとフレームの一致とは真逆で異質なもの(しかし小林正人は、イメージと支持体の一致には一貫してこだわっていると思う)。
イメージそのものは、とてもはかなくて、出現と同時に、フレーム(支持体)の瓦解する力に呑みこまれて消えてしまいそうなのだが、それを、チューブから直接キャンバスにのせられたようなナマな絵の具の塊が、イメージと支持体という異質な次元を仲介して、かろうじて食い止めている、イメージをフィックスさせている、という感じ。このナマな絵の具が、イメージと支持体の歪形とを仲介しているというか、イメージが出現と消滅へと動く力と、フレーム(支持体)が瓦解へと動く力とをともに受け止めて、持ち堪え、作品のあやうい均衡をつくりだしているように感じた。
それと、やはり小林正人は光の画家で、キャンバスの地の白(あるいはメタリックなシルバーの下地)と、その上にのる絵の具の関係がとても美しい。光を受け止め、反射させる面としての下地と、その光の反射を一部遮蔽する半透明の絵の具との関係が美しい。イメージそのものは、退行的で露悪的ですらある(「ひどい絵」)のだが、絵画が光を捉える仕組みである、下地と絵の具との関係はとても洗練されていると思う。この微妙な不均衡の感じが小林正人っぽいと思った。