●テレビをつけたら、徹子の部屋に鳳蘭とその娘が出ていて、二人があまりに似ているので目が釘付けになってしまった。似ている、ということは何故こんなに面白いのか。いや、たんに似ていることが面白いのではなく、親と子が似ている(時間差?)、ということが面白いのだ。
●夕方、画材を買いに立川まで出かけたら、帰りに、中央線が、窓に破損が見つかったとかで遅れていて、ものすごく混んでいた。手ぶらだったら別になんと言うこともないのだが、画材を買い込んで、キャンバスとか大きな荷物があったので大変だった。画材を買いに立川まで行った帰りに電車が遅れる率が、すごく高い気がする。
●帰って、手慣らしの感じで、小さなキャンバスに絵を描く。長くずっと筆触で絵を組み立てるということをやってきていて、そして、ここ何年かは並行して線の仕事をしてきたのだが、今、やろうとしているのは、筆触、線、色面という異なる三つの要素が、それぞれバラバラに機能しながらも、一つの画面に共存する、というような感じのこと。ちょっと前から、線が色を持つ、ということについて考えていて、キャンバスにクレヨンで描く線で絵をつくっていて、そこに、部分的に色面が侵入してきていたのだが、色面がもっと本格的に加わり、さらに筆触も加わり、より複雑な状態が目指される。一枚の絵(というあり得ない何か)は、筆触と線と色面と(それらを成立させるブランクと)が(出会うのではなく)「すれ違う」ことによって、たちあがる、というような。この感じは、実は12、3年くらい前に一度やろうとしたことがあって、あまりに難しくて上手くいかなくてやめてしまったのだった。今ならなんとか出来るのではないか、と。当たり前だけど、制作というのはものすごく本気でやるもので、だから、やろうとして上手くいかなかったというのは、すごいトラウマとして体のなかに残っていて、その恐怖を克服しながら進まなくてはならない。いやそもそも、絵を描くことは、ものすごく楽しいことであると同時に、ものすごく怖いことでもあるのだが。
この恐怖に対して背中を押してくれるものは、ぼくにとって常にセザンヌとマティスなのだが、それだけではなく、去年観ることの出来た、神村恵と小林耕平の作品からも、刺激と勇気とを与えてもらった。
今までは主にアクリル系のメディウムを使った絵の具(まあ、アクリル絵の具だけど、いわゆる普通に売っているアクリル絵の具とは限らない)を用いて制作していたのだが、画面に本格的に色面を導入するに当たって、油絵の具を用いて描くことにした。色面を薄塗りで「もたせる」のはアクリルではちょっキツいということなのだが、それだけでなく、最近、アクリル系メディウムの限界のようなものを、いろんな場面で感じてしまうことが多くなってきたから。主に筆触で組み立てる作品をつくりはじめた時、もともと下地用のもので、アクリル系の絵の具のなかでも限定性の強い(やれることが少ない)カラー・ジェッソという不器用な絵の具を使ったのは、あえてその貧しさを利用しようとしたのだし、それは、油絵の具へのフェティシズムにはまり込みたくなかったからでもあるけど(まあ、たんに質感や発色が独自で面白かったのだが)、しかし、ずっとアクリル系の絵の具を使ってきて思うことは、アクリル絵の具は「塗る」ものであって「描く」ものではないという感じなのだ。半透明の絵の具の薄い層を重ねようとする時、アクリル系メディウムの透明感は、最後のところでどうしても信頼し切れない感じが残ってしまう(逆に、ステイニングのような仕事の時にその本領を発揮する)。
しかし、油絵の具は高いのだ(カラー・ジェッソの最も良い点の一つは「安い」ということだった)。まず、この次元で躓くというか、頭が痛い。