●今日は久々に、「geography」ではなく「Plants」のシリーズの作品をつくった。
十年ちかくずっと、主にアクリル系の絵の具で作品をつくっていて、この二年くらい、こわごわと油絵の具を試していたという感じだったが、ここにきて油絵の具が中心となった。アクリル系の絵の具はほぼ無臭だけど、油絵の具はすごく臭う。一日に何時間か喫茶店いる以外はずっと、この臭いのなかにいる。
これはぼくのイメージというか、あくまでぼくが自分の作品の制作のなかで感じていることなので、一般性はないし、ニュアンスが正しく通じるかも分からないのだが、アクリル系の絵の具は「塗る」もので、油絵の具は「描く」ものだ。
魚をさばく時、なるべく包丁を入れる回数を少なくしないと味が落ちるということを言うけど、アクリル系の絵の具はまさにそんな感じで、絵の具に触る回数や時間をなるべく少なくしないと、どんどん感度が鈍くなってゆく感じがある(だからおそらく、アクリル絵の具の使い方としてはモーリス・ルイスが究極的に「正しい」のだと思う)。特に、いったん画面にのせた絵の具は、その筆触は、ほぼ一発勝負で、それ以上ナイフや筆で触ってしまうと、鈍くなってしまう。だから画面にのせるその瞬間の感触は修正できず、それがほぼそのまま、すぐに乾燥して定着される。それは既に起こってしまったという前提で、その次の行為が探られる。そのような行為が何度も何度も集積されて、作品がすすんでゆく。制作という時間は粘り強くつづくとしても、一つ一つの行為は、割合、すぱっと立ち上がって、すぱっと途切れる。
油絵の具では、画面に絵の具が置かれた時が「はじまり」で、その感触がそのままフィニッシュにならなくていい。勿論、画面に置かれる前に、絵の具の色や粘度や量は出来る限り精密にパレットで調整されるし、それが画面に置かれる時の感触も事前に正確にイメージされるのだが(そうでなければ、画面に絵の具を置くことで絵は壊れてしまう)、しかし、画面に置かれた時点では絵の具はまだ仮の状態としてひらかれている。画面に置かれた時、絵の具はまだ完結していなくて、それよりもっと後になされる行為によってその意味(そこに、その絵の具が、その量、置かれたということの意味)が変質する可能性が残されつづける(なかなか乾燥しないし、物質としての強い練りや抵抗感、ボリュームがあるので、何度筆で触っても、鈍くならないから)。それは仮の項であって、それは長い時間を含み、かなり先までずっと仮の項のままでもちこたえている。ひとつの行為の意味が、ずっと後々まで確定しない(動き得る)ということは、画面に一筆入る度に仮の項が増え続けて、同時に多数の項を、確定されてないままのものとして扱わなければならなくなる。油絵の具を素材にすることで、制作中に可変項として「抱えるもの(持ちこたえるもの)」の量が飛躍的に増える。
だから、油絵の具は制作者により深い没入を誘い、要請する。だからこそ、下手をするとすぐに、ナルシスティックな「描く喜び」みたいなもの、あるいは(結局は同じことなのだが)「描くことの泥沼」のようなものに、陥りやすく、そこからの浮上が困難なのだ。自分は一生懸命にやっているつもりでも、同じところをぐるぐるまわっているだけというような悪循環とか。比喩的な言い方だが、高度な潜水と水泳の技術がなければ、おぼれてしまいかねない。それはけっこう恐ろしいことなのだ。
要するに、一つ一つの行為の含み持つ時間の幅が違うということなのだと思う。まあ、ぼくは今、あっさりし過ぎているほどあっさりしている(ように見えるであろう)絵を描いているので、だから、あまり怖がらずに油絵の具でいけるのだけど、それでも、へろーっとした線をたった一本画面のなかに引くだけにしても、ずいぶんと感覚は違うと感じられる。