●引用、メモ。「考えること」のプロトタイプとしての投影同一化について。『集中講義・精神分析』より。これはとても重要なことだと思う。
投影同一化とは、乳児がもつ、《自分の体の内容物や自分のなかの悪いものを他者に排出してゆく》肛門期的な空想で、それは乳児に限らず、成人においても、自分のなか扱うのが大変な「何か」を《他者のなかでコントロールしてもらう、他者のなかに預けてコントロールさせるという空想を持つ局面が分析のなかで絶えず出てくる》ということでもある。《投影同一化というのはある意味で外在化なわけですよね。内的な世界の現象が外的なものに変換される。》
《逆にいえば、乳児の世界では最初から考えは考えられていなかったんです。この辺にフラフラ飛んでいたんです。つまり考えは考えられない考えとして最初にあるわけです。unthought-thoughtなんです。unthought-thoughtが誰かに考えられるかたちになるまでは、それは単なる対人的なできごととしてしかそこにないんです。つまり、「考えること」は投影同一化を起源としていて、投影同一化というのは思考作用のプロトタイプなんです。そういうのがクラインを経由してビオンの考えたことです。でも、これは自由連想をやっていればすぐわかることです。心理療法というのは患者さんの考えを聞いているんじゃないんですよ。しゃべっているうちに患者さんが自分で考えられないことをだんだん考えるようになっていくんです。「何でおれはこんなことをいっているんだろう」ってなっちゃうんですよ。そうでなかったら何のためにやっているのかわからないわけでしょ。(…)つまり、何か知らないうちに考えていなかったことを考えることが出来るようになってしまっているような感覚のなかに入ってゆくというのが心理療法なんです。自由連想というのは他者の考えを考えることなんです。(…)その考えというのはどこから来るかというと、この辺から来るということをビオンは言ったわけです。対人空間のなかに考えられない考えunthought-thoughtがあるんだ。》
《それから、投影同一化には当然プリミティブなコミュニケーションの機能がありますね。つまりまだ考えられないようなものを直に向こうに考えさせる。乳児は「おっぱいをほしい」という考えを考えることはできないけれども、「おっぱいがほしいんだな」とお母さんは思うわけでしょう。だから、直に何かをこちらに伝えてきて、こちらに意味をつくらせるわけですね。》
《おそらく乳児は、空腹による不快を、何かが自分のからだ、おなかのあたりとかそのへんを、あるいは自分のこころに(乳児はこころとからだの区別、こころの内部とからだの内部の区別はついていません)噛み付いたり、傷つけたり、ゆすぶったりするような具体的な体験として体験しているのでしょう。そうした苦痛な体験は「何か」といま言ったもの、これは「内的対象」なわけですが、具体物として体験されています。その具体物を乳児は排出します。するとその具体物はそこにいる母親のなかに棲家を見出します。でも母親はその具体物を「モノ」とは体験しません。母親は成人であり、気が狂ってもいません。ですから乳児から投げ込まれたなんらかの圧力に名前と人称を与えることができます。これは赤ちゃんの空腹だ、と。母親は「はいはいおなかがすいていたのね」という言葉を与え、同時に乳児は乳首と母乳を与えられ、乳児にとっても圧倒的な破局的不安は姿を消し、乳児は母親のふるまいやこの関係性を通じて微妙にこの苦痛を持ちこたえることができるように変化していきます。
このような母親の機能、つまり何か具体的な圧力として到来したものと語り合い、意味を見出し、ある考えを生み出すような機能をビオンは「物思いreverie」と呼びました。》
《こうして思考の可能性を帯びた具体物が思考に練り上げられ、その結果、乳児はいくぶんなりとも空腹という意味を考えることができるようになります。ここにコンテイナー(いれもの)とコンテインド(なかみ)というモデルを考えることができます。考えられなかった考え(なかみ)を考えることのできるいれものというこのモデルは、相互交流的なもののなかから考える能力が生まれるということのモデルを与えてくれます。
ここで重要なことは、コンテイニングというのは、単に安定に向かうとかそういうことではなく、中味が変化する(考えられなかったことが考えられる形になる)ということだけでなく、コンテイナーの変化というもの、考えることという装置そのものの変化も伴っているということなんです。》
《思考作用というとすごく硬くなっちゃうけれど、ビオンははっきり、「Thinking is emotional experience.」と言っているんですよ。thinkingというのは非常に情緒的な体験だと言っているわけです。つまり、thinkingというのは、ものを失うとか、自分が考えられないことがあるとか、そういうことに立ち向かいながらやっていく非常に情緒的なもので、情緒というものがそこに含み込まれている体験で、そうじゃないthinkingというのはメカニカルで、それは本当のthinkingじゃないんです。偽のthinkingなわけです。マイナスKなんですね。》
●ここで最後に出てくる「マイナスK」という概念が面白い。ビオンは、精神分析のなかで起こる情緒的な交流を「L(愛)」「H(憎しみ)」「K(知ること)」という三種類に分けて、分析とは「L」や「H」を媒介として「K」を獲得するという営みだとしているという。そしてその時、「K」に至ることを阻害する「偽の」知ることをマイナスKとした。《マイナスKという概念は知らないということではなくて、知ることを邪魔する知識ですね。要するに知ったかぶりのことですね。私たちは知っているというふうに思っていながら知ることから隔てられています。》これってすごくいろいろと「思い当たること」がある気がする。知識を防衛や武装として使用してしまう、とか。
●もうちょっとメモ。生成としての「夢見ること」。ここでは、「夢見ること」と「考えること」とはほとんど重なっているようにみえる。あるいはフーコーの「想像すること」とも。ビオンのdreamingについて。
《ビオンは後で夢見るdreamingことについて非常に重要な概念を提出します。ビオンにとって夢は夜見ているんじゃないんです。今もみんな見ている。覚醒状態で見ている。つまり夢を見るというのはビオンの考えでは無意識と意識を接触させる、そして意味をつくり出すという意味なんですね。それが順調に接触しているようなこころであれば目覚めているときも夢を見て、意味がずっと生成されていっている。(…)それは寝ているときも起きているときもつづいている。それで、精神病者は夢を見られなくなる。(…)
フロイトは夢というのは無意識の願望充足だと言いました。願望充足があまりに危険だから加工して夢に見るんだという話です。非常に還元主義的な話です。ところがビオンやウィニコットは「夢見ること」というのは生きることそのものだったり、この世に意味を見出すことそのものだというような、還元主義の反対なんです。ある種の生成としての夢という見方なんですね。夢の内容よりも「夢見る」という営みが非常に重要だという考えを、ビオンは出してきたと思うんです。》