2021-01-26

●『精神分析にとって女とは何か』第二章「精神分析的臨床実践と女性性」(鈴木菜実子)から、引用メモ。

フロイトは、女性性は「ペニスの欠如」によって基礎づけられ、疑似的なペニスであるクリトリスから受動的なヴァギナへと興奮する器官を変化させるという女児の発達過程を考えた。しかし、女児にはヴァギナと《その先に空間が存在する》という認識が発達初期の段階からあり、その認識が独自の空想を促すのだという。

《女児が自身の内側にある性器の感覚に気づくことは、空間という知識をもたらし、その空間に関する空想を促すことになる(Richards 1992)。自分の身体の中に含まれる内的な空間と開口部、口や肛門、ヴァギナといった場所に対する気づきと、それにともなう乳幼児期や早期の自慰活動と官能的体験は、女児が自分自身の身体との関係性を確立する前提となり、それが母親に対する依存から女児自身が距離を取ることを促進する。こうした認識と同時に、女性は禁じられた願望や欲望に由来する超自我による罰として、膣口を閉じておくという空想、あるいは、開口部を攻撃されるという空想を持つという(Laufer 1993)。そうした空想は、患者の夢の中で、納屋や家、屋根裏といった空間とその中にある家具というような形で、女性の身体空間や、内的な空間の表象として表現されうる(Coodman 2019)。》

●「ペニス羨望」と「去勢コンプレックス」(女児はペニスがない=男性ではないことに苦しむ)という形でペニスを特権化するフロイトに対して、ペニスに先行し、ペニスを含むものとしての「乳房」を中心に構成されるメラニー・クラインの理論についてのメモ。

《(…)クラインは生得的、本能的な資質として羨望を想定していたが、フロイトがペニス羨望を女児のエディプス・コンプレックス形成の中心に据えたのとは違い、ペニスの前に乳房への羨望が存在していると考えた。乳房はその良い性質のために羨望され、攻撃されることになる。この乳房への羨望はペニスへの口唇愛的、あるいは受動的羨望に置き換えられ、母親への羨望と繋がると彼女は考えていた(Kristeva 2000)。そして乳児が強くひきつけられている母親の身体の内部には、母親の身体を占有する父親(結合両親像)が存在するという認識が生得的に存在するとされた(Hinshelwood 1991)。》

《(…)乳児は空想の中で、口を経由して外的世界において知覚するすべてのものを自身に取り入れる。乳児は男児・女児ともにまずは母親の乳房との関係を他との関係に先行して開始すると言える。この乳房との早期の関係性は生得的に備わっているもので、口唇的な性質と幻想を有していると考えられた。この幻想は吸ったり、噛んだり、噛まれたりするサディスティックで妄想的なもので、早期の不安に帰着する(Hinshelwood 1991)。そうして取り入れられ、同一化された対象は自我の一部を形づくり、こころを構成する部分となる。自我は良い対象も悪い対象も取り入れるが、単に栄養を与えるだけでなく、愛情を含みこんだ、乳児の無意識的空想と欲望に満たされた対象が母親の乳房であり、この対象に乳児の攻撃性が投影されたときに、それは悪い対象となる(Bronstein 2001)。母親の身体に加えた攻撃のための報復の恐怖と、自責と罪悪感に乳児は苛まれる。》

《このクラインの理論化によれば、超自我形成の時期もフロイトが想定していた時期よりずっと早い段階に生じていることになる。超自我は、口唇的サディズム期における攻撃性の衝動と願望が両親に投影され、恐ろしくて処罰的な両親を取り入れることによって形成されると考えたからである(Klein 1928)。さらに、これらの乳児の体験をエディプス的なものに変えてしまうのは、母親の身体との二者関係ではなく、乳児が自分の衝動の前に立ちふさがる第三の要因に気づいているという事実である。乳児は母親と父親の性交を、母親が口腔を通じて父親のペニスと合体しており、それゆえに母親の身体はペニスと赤ん坊で満たされているという憶測を抱いている(Klein 1933)。それは、命を生み出す空間としての母親の身体が強力な敵によって占拠されているという認識であり、すなわちそれは、母親の身体という場をライバル的赤ん坊によって埋め尽くすことができる生産的なペニスである(Likieman 2001)。ここに、フロイトの考えていた全体対象とのエディプス関係に先んじた、部分対象との間の早期エディプス的関係性を見ることができる。フロイトエディプス・コンプレックスを3歳から5歳くらいの性器期に生じるとしていたよりずっと早い時期である。》

《ペニス羨望も同様に新たな形で理解される。そもそも、乳房への欲求不満が先にあり、それが父親のペニスを母親から奪いたいという欲望の根底にある(Seagal 1973)と考えられている。ペニスは部分対象であり、無意識的幻想においては結合両親像の一部分と想像されている。そのためペニスは乳児にとっては母親の体内、腹部あるいは乳房の中にあると信じられている。この前提からすると、フロイトが考えたように、女児がペニスを羨望し、ペニスを与えなかった母親を憎むのではなく、口唇的な満足の対象としてではあるが乳房と同一視されている父親のペニスとの合体を望むことになる。そしてこれが女児の性的発育の礎であるとクラインは考えた。ここで女児が持つ、部分対象同士の関係性への認識は、非常に激しい情緒を伴うがゆえに、女児は母親への攻撃的な情緒を抱き、この攻撃的情緒ゆえに反撃されるのではないかという迫害的な不安を感じることになる。この文脈で、クラインはペニス羨望をも再定式化することになった。ペニス羨望は、自分の身体が傷つけられるという恐怖に満ちた不安として表れる。女児は自分の小さな外性器が、身体への攻撃という恐怖に曝されていると感じることになるという意味で、ペニス羨望は女児にとっても変わらず重要な意味を持つと言える。》

《くわえて女性のマゾヒズムについても、内在化された対象に向けられたサディスティックな衝動であり(Klein 1932)、女児が罰しているのは、彼女自身の中に取り入れられたペニスである(Kristeva 2000)と考えられた。またクラインは、女児が父親に対象を向けかえるプロセスを、母親に向けられた恐怖や苦痛の両価性を回避するためのプロセスと考えた。》

●ここで参照されている「Kristeva」は、ジュリア・クリステヴァなのか。『サムライたち』、『黒い太陽』以降、あまり名前を見かけることがないと思っていたのだが、最近でも、メラニー・クラインやハンナ・アーレントボーヴォワールについて書いた本が翻訳されているようだ。実は、今年になってから読んだ『吸血鬼と精神分析』では(ミステリとしての「謎」的にも)重要な登場人物として出てきていたのだった。