●『精神分析にとって女とは何か』第二章「精神分析的臨床実践と女性性」(鈴木菜実子)から、もうちょっとだけメモ。
ウィニコットは、女性的要素を「being(いること)」、男性的要素を「doing(すること)」とし、女性も男性もどちらも両者を持つと考えたが、ここで引用するのは理論的なことというより、分析家としてのウィニコットの敏感さ(と、人の心の多=他層性)を感じさせるエピソード。精神分析について「本を読んで」知ると、どうしても理論的なところが気になるのだが、臨床=実践としての精神分析というこを考えると、それは体系的に習得される身体技能であり、一対一の関係を基礎とするという意味でも、武道の立ち会いに近いもののように感じられる。
《(…)ドナルド・ウィニコットも、男女ともに女性的要素、男性的要素を持っていると考え、女性的要素は人生の始まりに位置づけられると考えた。彼はこの着想を、男性患者の話を聞くうちに女性の話を聞いているという感覚が生じた事例から得たという(Winnicott 1971;Abram 1996)。彼はその逆転移を患者に伝えたところ、患者が幼少期に母親によって、女の子とみなされて育てられたという経緯が語られ、母親が彼を女の子とみなしていた事態(それはおそらくは母親の願望だったのだろう)が転移において反復されて、ウィニコットの逆転移感情が生じていたことが理解された。ウィニコットは患者が分裂排除した反対の性の存在、解離された性同一性から両性に備わる男性的要素、女性的要素というメタ心理学的概念に関する思索を展開させた。彼は、人生の最早期の「二人でいて一人でいる」という母子が融合し、未統合の状態における乳児の内的主観性を「存在することbeing」と考え、これを女性的要素と考えた。つまり女性的要素は環境としての母親と乳児が同一化している経験に由来していると考えた。この同一化は自己の感覚が発生するための不可欠な要素であり、この後に同一化した状態から、自分と自分ではないものを区別しようとする段階において、つまり分離のプロセスの一部において男性的要素が作動する。このプロセスは環境としての母親と対象としての母親という二つの母親が統合される思いやりの段階へと繋がるという。自己の感覚は発達上の適切な時期にこれらの要素の融和が生じるかにかかっていると彼は述べている。》
《この点はウィニコットとクラインの理論を決定的に分ける重要な点の一つである。クラインが人生の最早期から対象関係が始まると考えた点とは異なり、ウィニコットは対象関係は早期の数週間から始まると考え、そこでは乳児と母親は一体化していると考えた。》
●ウィニコットの、乳児は、母親と二人でいることによって「一人でいる」ことができる(そして「一人である」ことが心の発達の基礎となる)、という考え方が面白いと思う。以下は、『集中講義・精神分析』(藤山直樹)からの引用。
《最早期、生後一日とか二日の話ですよ。そこが出発点で、そこでは乳児は必要なものを必要なときに必要なように手に入れられるために、こころを持つ必要がないわけです。ひとりのパーソンである必要はない。だだそこに静かにa going-on-being として存在する。a going-on-being というのはパーソンじゃないけど、しかし存在 being していると。ここが重要なんで、ウィニコットはこの being ということを非常に重視します。つまり、being としての全体性を保持して、そこで静かに連続 continuity を保持しながら息づいている。そこで乳児は一人なんです。孤立 isolation している。つまりお母さんに完璧に世話されている故に乳児にとってお母さんはいない。乳児はひとりぼっちです。誰もいない。健康な子どもにとって一人であるということ、最終的にウィニコットはどんな人間も一部分は孤立体だ、一人である、孤立体の部分を持てない人は要するに気が狂っているということになる、というわけです。われわれは一人である。最終的に誰かのいる前でも一人である側面を保持している。(…)ウィニコットは、完璧にお母さんに世話されている、環境的なお母さんの供給があることによって一人であるというところから子どもを考えたわけです。》