●朝カルで、西川さんと保坂さんの講座。
一般的に、「このわたし」は「この脳」のなかに存在すると考えられている。しかし西川さんは必ずしもそうとは言えないと考える。つまり、あくまで「心身問題」であって「心脳問題」ではない。
意識の連続性(=「このわたし」の同一性)が、それを観測する観測者の能力に依存するというのは、西川さんの思想のけっこう根本的なところにあるもののように思われる。ここで仮に、連続性を同一性の根拠であると言うことができるとして(連続性を同一性の根拠とすることは、時間の空間化として批判されるわけなのだが)、数学的な不連続性の定義(連続性を回復するための難易度に基づくもの)をもってきて、それを補完し連続的なものとして観測できる観測者の能力をはかろうとする。つまり、どのような観測者を想定すれば、連続性=同一性が可能になるのかを考える。というか、観測者の能力によって「どこまでがわたしなのか」という境界が決まるのでは、と考える。
しかしここで、不連続なものを連続するものとして観測する、その当の観測者自身の連続性は誰が保証するのか。つまり、《不連続性を語る視点の統一性》が暗黙の前提とされてしまっている。で、たとえば郡司ペギオ幸夫は、不連続性の分類が失敗に終わることを示すこと通じて、「不連続性を語る視点の不連続性」を示し、そのことが実は、常駐している連続性補完観測の存在を実際に構成することになるのではないか、という試みを行うのだ、と。
ここで西川さんは、自分自身では決してその変化を観測することのできない「置換検出不可能性」ということを考える。このわたしが、ある時いきなりAさんになりかわり、しかし、わたしであったという記憶を忘れ、Aさんの記憶をそのまま引き継ぐとしたら、「わたしとAさんが入れ替わった」ということを、わたしは知ることができない。さらに、わたしがいきなり未来のわたしになったり、過去のわたしになったりしても、その時点での「わたしの記憶」だけをもつ限り、その移動に気づくことができない。同様にして、過去のAさんになったり、未来のBさんになったり、また現在の自分に戻ったりしても、その都度それを忘れるとしたら、わたしはずっとわたしとして連続しているようにしか感じられない。
AさんとBさんとCさんが話しをしているとして、「このわたし」が、Aさんの記憶とともにAさんとなり、Bさんの記憶とともにBさんになり、Cさんの記憶とともにCさんになり、別の人物になり代わる度に前の記憶を失うとしたら、そこには「このわたし」しかいないことになる。
この考えを押し進めてゆくと、この宇宙には「このわたし」しかいないということも考えられる。
このような議論は、例えば永井均などにもみられるけど、西川さんはこれを、哲学的な言語(あるいは主観的な経験の側面)だけでなく、物理的な次元や、情報論的な次元からも考え、それらの間の変換の規則まで考えようとする。
《ビッグバン状態の宇宙を固定し、観測の方を時間発展させる方法(ハイゼンベルグ描像)をとれば、宇宙の状態はずっとビッグバンのまま、観測の仕方だけが変わっているということもできる。そのとき、観測が数的な区別を作れないなら、だれもかれもがビッグバンと数的に等しい。》