●お知らせ。「note」に「秋幸は(ほとんど)存在しない――「岬」(中上健次)について」 (1)〜(3)を公開しました。(3)までで全体の半分弱くらいで、この後、(4)以降がまだつづきます。このテキストは2012年に書いた未発表のものです。
https://note.mu/furuyatoshihiro
(このテキストは、けいそうビブリオフィルで連載している「虚構世界はなぜ必要か?」の、第一回の補遺になってもいると思います。)
http://keisobiblio.com/author/furuyatoshihiro/
●昨日の、西川・保坂講座で、重要だと思ったことを忘れないようにもう一つメモしておく。どの程度正確に聞き取れているのかは分からないけど。
ミサイルを撃つ時、狙った場所に着弾するように軌道を計算して、その軌道に乗せるように発射する。ここで使われるのは物理学だ。この時、物理学は時間を空間化している。つまり、発射から着弾までの未来の時間が既にそこにあるかのように考えている。これを拡張すれば物理的な決定論となり、宇宙の始まりから終わりまでの時間を、既にあるものとして考えることが出来る。四次元主義の哲学が考える時空ワームのように。
ミサイルを撃つ者は、事前に軌道を計算して撃つ。するとミサイルは、実際に物理空間を計算された軌道に乗って動いてゆく。ではこの、実際の物理空間で起こっている物質の移動を「計算」して実行しているのは「誰」なのか。物理空間では、エネルギーがもっとも低い状態が選択されるというが、どういう状態でエネルギーが最小になるのかを、一体誰が計算しているのか。人間が、コンピュータを使ったシミュレーション空間で弾道を計算するように、現実の空間の出来事の移り行きを計算しているのは誰なのか。
ここで考えられるのは、この宇宙のなかで出来事が推移してゆく「時間」と、この宇宙のなかで起こる出来事の推移を計算している「時間」とは、別のものであるはずだ、ということだ。この宇宙の時間の外に、この宇宙のあり様を計算するための別の時間が必要だということになる。「物理学」が、このような絶対的な外部観測者としての「別の時間」を要請するのだ、と。