2019-10-28

引用、メモ。『超人の倫理』(江川隆男)、第四章「超人の原理」より。

●自由意志の否定

《人間は、一般的には自由意志によってより善く定義されると言えます。ところが、人間は実は「自由意志」(free will)といった能力をもっているわけではありません。》

(…)絶対的意志である自由意志とは、自然の世界における原因・結果の系列に対して、その外側から介入して新たな別の系列を開始する原因となるようなもののことです。》

《心や精神のうちに、自分の身体を動かしているものとしての意志を認め、また知性や認識とはまったく別の、それらから自律した能力としての自由意志を認めることに、人々はそう苦労はしませんでした。》

《私たちが普段から理解している意志とは、次のようなものです。目の前の或る物は、だれにでも必然的に知覚され認識されるが、その物を肯定するか(意欲するか)、否定するか(意欲しないか)は、その物の認識や知覚の後で、それらとは別の能力である意思によって為されるのだ、と。》

《これに対して、ニーチェが提起する力能の意志は、自由意志や意志一般とは直接には何の関係もありません。力能の意志は、むしろ認識と意志との、あるいは知性と意志との、あるいは感性と意志との同一性をあらわしていると言ってもよいでしょう。そして、この同一性が、遠近法主義における解釈と言われているものなのです。》

●自由とは

(…)意志とは何でしょうか。それは、何よりも〈肯定する能力〉あるいは〈否定する能力〉です。》

《しかしながら、(…)意志は、認識能力と別の能力ではありません。言い換えると、物の観念そのものが、つまり或る対象の観念それ自体が、肯定・否定の意志的な作用をもつということです。》

《精神のこうした決意は、現実に存在する諸々の観念が生じるのと同一の必然性をもって精神のなかに生じる。だから、精神の自由な決意で話をしたり、黙っていたり、その他いろいろなことを成すと信じる者は、目を開けながら夢をみているのである。》(スピノザ『エチカ』第三部、定理二・備考)

《観念の背後にも、観念の上位にも、自由意志といった主観性の別の作用など存在しないということです。》

《意志を結びつけて自由を考えることは、道徳的思考のもっとも典型的な表象だと言えます。逆に言うと、道徳的思考や感情は、自由を意志と関係づけることでしか考えられないのだとも言えるでしょう。端的に言うと、道徳とは、知性や感性から意志を区別することそのもののうちにあると言えます。》

《これに対して、これまで述べてきたような倫理作用の発揮にこそ自由があると考えること、これは、それ自体がまさに非人間的な様態の産出であり、超人の感性の産出につながっているのです。(…)自由とは、個人が、たとえ人間の道徳のうちにあっても、部分的に個人化して超人の倫理へと移行することなのです。》

《人々が一般的に意志と知性とを区別しようとする理由は、何とか愚鈍(=判断力の欠如)に陥らないようにと努力し続ける道徳的な〈人間=動物〉の産出のためだったわけです。》

スピノザ、自由意志の由来と否定

スピノザは、およそ以下の四つの観点から、人々が知性と意志とを区別したがる理由を挙げています。》(1)(4)

《これに対するスピノザの考え方を追うことにしましょう。》(a)(d)

(1)意志は知性よりもその及ぶ範囲が広いということ

というのも、知覚していない事物について同意しようとするとき、現に有している同意能力(意志)より大きな同意能力を改めて必要とはしないが、そうした事物を知覚しようとすれば、現に有している認識能力より大きな認識能力を必要とするからです。》

(a)意志は知性と同一である以上、意志作用は観念それ自体がもつ作用であり、したがって個々の観念しかないのと同様に、個々の意志作用しか認めることができないということ。

というのも、認識能力も同意能力も、物を知覚し肯定する場合は、つねに一つずつ順次に認識し肯定する以外の仕方はないからです。》

(2)人間は実際に知覚している事物について判断を控えることができるということ。

というのも、人は、或る事物を知覚しただけでは誤っているとは言われず、ただその者がそれに同意(肯定)したり、あるいは反対(否定)したりする限りで誤ると言われるからです。》

(b)判断をおこなうのは、意志ではなく、知覚や認識それ自体であるということ。したがって、人間に判断を控える自由な力があると考えることは否定されます。

というのも、判断を保留する場合、それは、自由意志によってではなく、その物事を十分に認識していないことによって判断が差し控えられているからです。》

(3)個々の観念は相互に異なった実在性あるいは完全性を含んでいるが、これに対して意志の肯定はあらゆる観念に対してつねに同一であるということ。

というのも、観念は必ず何かについての観念である以上、個々の観念はその対象が異なっているだけ異なった実在性を含んでいるが、意志の場合には一方の肯定が他方の肯定よりもより多くの実在性を含むとは考えられないからです。》

(c)肯定・否定の意志作用は相互に差異を有しており、それは、知覚や観念相互の差異とまったく同じであるということ。

というのも、事物aの観念の肯定と事物bの観念の肯定との間には、事物aの観念と事物bの観念との間の差異と同様の差異があるからです。》

(4)どれほど決定不能な状態(どちらか一方を選択できないような状態)を知覚したとしても、人間はその状況のなかで宙吊りにされることはなく、自らがもつ意志の力によって自由に決断することができるということ。

というのも、人間は驢馬のような自由意志のない動物ではない以上、知覚や認識を超えた内発的な意欲という能力を有しているからです。》

(d)もし動物に意思がないのであれば、人間にも意志がなく、したがって知性と意志が同じであると考える立場---第二章で述べた心身の並行論---から言うと、人間は知性ももたないということになります。

というのも、身体があれば、そこには精神が必ず並行論的に存在するからです。》

(…)自由意志は、どこから発生したのでしょうか。実は〈認識の欠如〉あるいは〈知覚の非十全性〉が意志を生み出したのです。》

《意志が認識の欠如や知覚の非十全性から発生したとすれば、意志はまさに虚偽の観念の一つになります。あるいは、知性と意志を区別するのは、虚偽の観念において成立する思想だということです。虚偽の観念は、認識の欠如によって成立する観念であり、それゆえいかなる積極的な形相も含んではいません。欠如や否定は、実在性を何も含んでいないからです。》

《改めて自由意志とは何かと問いましょう。それは、認識や知覚が非十全であればあるほど、つまりそれらが虚偽の観念から成立していればいるほど、そうした認識や知覚に対して或る決定の形相を与えていると強く実感すること以外の何ものでもありません。すなわち、意志とは自らの出自である欠如性を埋めようとする意識なのです。》

ニヒリズム

《人間は、自然現象の背後にはその本質としての自然法則があると考えてきました。そして、人間は、それを理解することこそが、自然そのものを、つまり自然(=神)の意志の表出を理解することであり、また自分たち自身が自然を支配することにつながると考えてきました。言い換えると、この限りで意志の問題は、究極的には神の位置を人間が占有することの問題へ帰結していくのです。》

《しかし、これはまさにニヒリズムの問題、とりわけ「反動的ニヒリズム」はいかにして「受動的ニヒリズム」に達するのかという問題のなかにあるのです。すなわち、それは、神の位置を占有した「人間」がいかにして死すべきかということです。》

(…)ドゥルーズに従って、ニーチェニヒリズムを三つの段階---否定的、反動的、受動的---に区別してみましょう。

これらの三つの段階は、二つの移行段階として理解できます。》

《第一は、否定的ニヒリズムから反動的ニヒリズムへの移行、すなわち神から神の殺害者(=反動的人間)への移行です。》

《第二は、こうした反動的ニヒリズムから受動的ニヒリズムへの移行、すなわち、こうした神の殺害者であり、神の位置を奪ってそこを占有する存在者となった人間から最後の人間(=受動的消滅)への移行です。》

ニヒリズムとは、(…)否定性からしか物事を理解しないし行動に駆り立てられることのないような生物、つまり人間の道徳的な営為全体についての名称なのです。》

ニヒリズムとは何でしょうか。》

《第一にそれは、自分たちより高い存在---すなわち、個々の人間の生を超越した価値、例えば〈善〉あるいは〈真〉---を想定して、自分たちの現実の状態、つまり実存の価値を低く見積もるという人間に本質的な傾向性のことです。》

《第二にそれは、そうした諸価値がまやかしだと気づいて、自分たちの実存を遅ればせながら肯定しようとするが、実際にはすべてが手遅れで静かに死に行くことしか残されていないことに人間が気づいていく仮定でもあります。》

《私たちがいる地点は、実はこの第二の過程のほんの入り口にあります。しかしながら、それでも重要な問題が、この地点ではじめて提起可能になります。つまり、こうした受動的消滅に対して、別の仕方での消滅を考えることができるということです。それは、まさに積極的な消滅の仕方、すなわち「能動的破壊」です。》

●〈無への意志〉と〈意志の無〉

《〈無への意志〉と〈意志の無〉は、まさにニヒリズムが有するもっとも本質的な二つの意味なのです。》

《〈ニヒリズム(nihilisme)における〈ニヒル(nihil)は、力能の意志の質としての否定を意味している。したがって、その第一の意味とその根本においてニヒリズムが意味しているのは、生によって捉えられた無の価値、生にこの無の価値を与える優越的諸価値という虚構、これら優越的諸価値のうちに表現される無への意志である。》ドゥルーズニーチェと哲学』

(…)人間の生、人間の実存は、つねにこうした優越的諸価値によって否定され、過小評価されてしまいます。》

ニヒリズムは、さらにその第二の意味を有しています。》

ニヒリズムは、第二のより流布した意味をもつ。それが意味するのはもはや意志ではなく、一つの反動である。人々は超感性的世界と優越的諸価とに対して反動的に活動し、それらの存在を否定し、それらのあらゆる妥当性を否認する。もはや優越的諸価値の名による生の価値低下ではなく、優越的諸価値そのものの価値低下。価値低下は、もはや生によって捉えられた価値低下ではなく、諸価値の無、優越的諸価値の無を意味するのである。新しい大規模な価値低下が広がっている。(…)このようにニヒリストは、神、善、そして真実さえも、つまり超感性的なもののあらゆる形態を否定するのだ。》ドゥルーズニーチェと哲学』

《この第二の意味においては、もはや〈善/悪〉といった超越的価値そのものが価値の低下のなかにあるのです。》

《ここではもはや意志は存在しません。意志そのものが無であることが露呈し始めたわけです。問題は、既に述べたように、否定的で反動的なニヒリズムからいかにしてこうした受動的ニヒリズムへと移行するのかということです。》

《それは〈無への意志〉に囚われた反動的な精神をそこから解放して、少しでも意志そのものが無であることを知ること、もはや意志しないことです。これがおそらく現代の人間がニヒリズムのなかでなしうる最大の一歩だと言えるでしょう。》

《自由意志は、このような否定的な仕方で、つまり〈意志の無〉として消滅する道を歩むことになります。》