2020-06-07

●密度は要約できない。樫村晴香の思考の密度は、樫村晴香の文章を読む/読み直す/書き写すことによってしか再現できない。以下、樫村晴香「自分が死ぬとはどういうことか?---の変遷」(群像7月号)より引用。

《しかしそれでも、自分が死ぬことをただならぬことと思うのは、一つの思想であり、正確には気分でしかない。気分は認識する者が、認識・思考・理解とは別の領域で体験する時間的変動であり、しばしば能動感の拡大/収縮として表象される。自分が死ぬことを考えられる者は、その考えの瞬間、他とは比較不可能な特別の激痛に突き刺されるが、しかしその激痛を思考によって、いつ、どこでも、自由に再現できるわけではない。これは面白い現象で、それが気分の正体であり、フロイトはどんな心的外傷や抑圧物も自己分析の訓練によって自由に再表象、再現できるようになるが、気分は何歳になっても統御できないと嘆いている。自分が死ぬことの甚大さを最大限に知りうることは、認識・行動の能動感を知っている者だけが経験する、特有の気分である。気分を持たない者は死の恐怖を体験できない。》

《「気分」は思考し決断する自由市民がもつ、自由意志という絶対的・抽象的権利が、不渡り手形に反転する可能性として、歴史上初めて不吉な全貌をあらわにする。死を「自分の死」として考えうる自由な個人は、現実に行動する前に、あるいは現実の行動をしつつ、さらには現実に行動をした後でさえ、それとは別の様々な行動の可能性を「自由意志」としてもち、その抽象的権利を自分自身とみなしている。この権利-債権-尊厳は現実的限定性をもたないゆえに、最大限の能動感を与えるが、世界と他人の中に具体的な書き込みをもたないので、行使の可能性を絶たれると、その痕跡すら残さない。行動を可能性として担保し、絶対的債権を得た個人は、時間と未来に絶対的負債を負い、跳躍する能動感が天上の怒りをかって落下する反転の恐怖を、気配や予感として自己存在の中枢に書き込まれる。この時、「他者の死」や「死の観念」という、いわば抽象的だった太古の死は、自分自身の死という非抽象的、非概念的な絶対的現実となり、認識の対象から離脱して、身体的で統御不能なものとなる。》

《他人が目を閉じても私が消えないように、私が目を閉じても、他人は世界から消え去らない。しかし他人が永遠に目を閉じると、私の存在の持続性を涵養する幻想の場の一つは、彼(彼女)の目、彼(彼女)の頭と共に消失し、その中にいた私は消滅して、私の存在は幾分か薄くなる。こうして他人が一人ずつ消え、世界中の他人がすべて消えたなら、曖昧に未来へ開かれて可能になる私の存在は、限りなく薄くなり、どん詰まりとなり、ただの思考、ただの知覚、ただのモノに収縮する。現実には他人のすべてが死んでも、人間は多分新しい幻想を構成するだろう。しかし私が永遠に目を閉じる時、そういった幻想の再建が封じられる形で、世界中の他人が消滅する。つまり私が目を閉じると、他人はやはり消滅する。これは死は愛を凌駕する、ということである。つまり自分の死の甚大さは愛の不可能性と結びついているが、これはもちろん、前者が後者を帰結させるということではなく、自分が死ぬことの絶対的災厄を感じさせるような歴史的感情は、愛という極めて抽象的・概念的な感情-複合、端的には不可能性という感情の形成と、構造的、時間的には同値だということである。》

《自分が死ぬことの絶対的災厄の感知は、自分のことほど自分は他人を知らない、という感情を形式論理的・仮想的出発点としつつ、知らない他者を自己同一化する日常的時間を「防衛」として発見-摘発する。しかしその発見・認識が他者への疎隔感と攻撃性を帯びるかに見えたまさにその時、この防衛は自分という「快感」、恒存的な快楽、すなわち絶えることのない大気の感触、光、風、人の声を、時間がいつまでも運んでくるだろうという幻想を、「消えない他者」をエージェントとしながら構成するための防衛だと人は知り、攻撃性は受け手を失い構造全体へ反転する。怒りは自分に向かい自分を食うので、感情は消失し、即物的な恐慌状態が現れる。》