●メイヤスー「減算と縮約」(「現代思想」1月号)を読んだ。まだ、ざっと一回読んだというだけだけど、(「形而上学とエクストロ-サイエンスフィクション」もそうだったけど)メイヤスーの書く文章は明快ですごく分かりやすい(訳文のおかげもあると思うけど)。何カ所か、もうちょっとつっこんで説明して欲しい、あるいはもっとじっくり読み直して考えたいと思うところがあったとはいえ、全体としては、分かりやすいというだけでなく、不思議なくらいすんなりと納得させられてしまう。読みながら何度も、「へーっ」とか「ほーっ」とか「なるほど」とか、口から思わず出てしまう。
●反動的な生成と能動的な生成という二つの生成に対応する、司祭的な死とコミュニケーター的な死という概念の配置は、言われてみれば当たり前のように感じられるのだけど、なんというかすごく明快に分かりやすくまとめられたなあ、という感じ。そしてまさに今、我々は、コミュニケーター的な死の恐怖に直面しているように思う。
なぜ、あらゆる力は反動的(司祭的)になることが定められているのかという問いは、むしろ、現在においては、そのような反動的な力が実は失効してしまっているのではないかという恐怖こそが前景化しているという問題へと書き換えられているように思われる(これは社会反映的な言い方で、哲学的には正しくない---反動的生成の失効などという言い方は理論的におかしい---ことは分かっているけど)。反動的な生成が十分に機能しないとすれば、能動的な生成はクリエイティブな(コミュニケーター的な)死と区別がつかなくなる(というか、そちらへ流れてゆく抑えや歯止めが効かなくなる)。つまり現在においては、あらゆるものごとがクリエイティブな死の方へと流れてゆくという感じがある。ここで言われているクリエイティブな死とは、閉じる(遮断する、減算する)ことが不可能な《コミュニケーションの完全な支配》状態であり、開き切ることで世界のすべてが流入する(すべてに対する関心によって特定の「関心」が不可能になる)《存在のおぞましい過剰》としての狂気であり、それはエントロピーの増大による熱死のようなイメージだとも言えると思う。
《これは、狂気としての死、非一貫性の死であって、麻痺としての死ではない。クリエイティブな死とは、触発の欠損の増大によって眠り込むことではなく、コミュニケーションの絶え間ない流れのうちで呆けることである。》
《(…)コミュニケーションの致死的な生成は、司祭の反動的な生成と決定的に異なっている。なぜなら、致死的な生成は、能動的な生成に類似しており、ある程度までそれと区別することさえできないからである。》
●ここにこそ、現在のシリアスな問題があるように感じる。能動的な生成はカオスに近づくことにより生じる(創造はそこで生まれる)が、近づきすぎて自らカオスと化してしまえば、反動的な収縮(麻痺)としての死よりもさらに悪い、クリエイティブな死(無限の狂気、熱死)へと導かれる。次々と生まれる、素晴らしいはずの創発や革新が、自らの首をどんどん絞めることにもなる。
《コミュニケーションの哲学、あるいは少なくともその権化のいくつかを前に哲学者が抱く恐怖とは、自らの死の可能性を前に抱く恐怖であろう。》
《要するに、反動的な生成は、生命を、クリエイティブな生成から保護するものである》。
ここで、反動的な死の重要性というか、誘惑性が語られる。つまり、反動的な死はクリエイティブな死よりは、「より少なく悪い死」である、と。この部分とか、まるで樫村晴香みたいだ。
《つまり、この誘惑は、司祭が我々に少なくとも穏やかな死を約束することに由来するのであって、この穏やかな死が、もとより流動に対する無関心のプロセスであった誕生のプロセスを無限に強化するのである。司祭は我々に、二度目の誕生、すなわち再生を約束する。再生とは、孤立、外界に対する二乗の無関心、世界への〔最初の〕到来よりも拡張された希薄化---要するに、ある種の不死のことである。》
●そうであるが故に、思考することは困難でかつ希なことである、となる。能動的な生成とクリエイティブな死とは、≪ある程度までは区別がつか≫ず、連続的である、あるいは同じ方向にある。だから思考は、反動とは逆を向いた(つまり、「より悪い死」の方を向いた)死者を訪ねること(=能動的な生成)であると同時に、その悪い死からの帰還に成功すること(=クリエイティブな死に陥らないこと)である必要がある、と。つまり、この二つの間の往還が必要となる。まあ、この結論だけみると、すごく常識的なことなのだけど。
《発生時、新たに流動の脱構造化を経ていながら、構造を持つ生物であり続けること。開かれたものにおいて自らを保つこと、自らを堅固に維持すること、それゆえ、ある程度は閉じた状態を保つこと、そのようにして、カオスの経験を制御し書き綴ること。》
●ここからはまたトンデモ話となるけど、例えば昨日の日記で書いた『境界線上のホライゾン』という作品は、作品としてほとんどクリエイティブな死の状態に近づいているように思われるような、滅茶苦茶なものと言える。ここまでカオスに近づくのは、それ自体としてすごいことだと思う反面、それに対する(死を前にした)強い反発や恐怖がぼくにはある(そしてその反転として、強く惹かれもする)。
そして、それが「死」へと落ち込むことをギリギリで持ちこたえている(実際、商品としてかなり成功している)とすれば、それを支えているのは、きわめて幼稚で単純な形に縮減された物語(王子様がお姫様を救う)や感情(幼稚で、かつ類型化された感情や欲望)であり、要するに非常に縮こまった(ほとんど死に近づいた)反動的な生成(力)であるように思われる。それがほとんどバカバカしいとしか思えないほどに縮小され固着したものであることによって、逆に、制御されていないカオスにかろうじてある方向付けを与え得ているように思う。いや、そうではなく、カオスに近い状態を許しつつ、そのなかにあっても、そのカオスを忘れさせている(明らかにカオスなのにカオスであることに気付いていないかのように呆けて振る舞うことを可能にしている)と言った方が適当かもしれない。つまり、ミニマル化された反動が、高度に組織化された(良質の?)反動(歴史、伝統、物語、趣味)の徹底した駆逐を可能にし、クリエイティブな死を推し進めているというような感じ。だから『境界線上の…』にあるのは、メイヤスーが書いているような、能動的な生成とクリエイティブな死との往還によってかろうじて可能になる、困難かつ希なものである「思考」というようなものとは別のものだということは明らかなのだけど、しかしそれとまったく無関係ということではないように思われる。
この「別のもの」についてどう考えればいいのだろうかと、考えてしまう。あるいは、そこに引き込まれてしまう。とはいえこれは「別のもの」などでは全然なくて、ありふれた反動(世界に対する麻痺)の1バリエーションにすぎないということなのだろうか。