●パソコンは、短時間使って、長く休ませるというやり方でなら、今のところ安定的に動いてくれている。でも、またいつおかしくなるかわからないので、怖々使っている。なので、メールの送受信は(今のところは)可能です。原稿も、ポメラで書いて、時々ワードで字数を確認して、最終的にワードでまとめるというやり方が(このままの状態であってくれれば)可能っぽいので、ネットカフェを使わなくても大丈夫そう(……であってほしい)。
●『有限性の後で』はまだ読んでいる最中なのだけど、これを読んでいて、『時間と自由意志』を書いた青山拓央は、この本についてどう考えているのか知りたいと思った。それは、『時間と自由意志』が「非存在の不可能性」というような結論(存在するものは、そうであるように今後もずっと存在しつづけるしかない)に行き着いていたからで、それに対してメイヤスーはまったく逆に、「非存在の可能性」こそが唯一の絶対的なものだと書いている(「あらゆる存在者が存在しないかもしれない可能性」こそが唯一の絶対的なものだ、と)。
(『壁抜けの谷』(山下澄人)で確か、「絶対なんてない」という人に対して「いや、絶対なんて絶対ないという絶対がある」と答える人が出てきたと記憶しているのだが、この問答がとてもメイヤスーっぽい。)
山拓央の議論(というか、結論部分だけなのだが)は、メイヤスーの本で「主観的観念論」と呼ばれるものにとても近いと思われる。そしてそれは、メイヤスーが相関主義的循環の裂け目に対する二つの可能な態度とするもののうち(メイヤスーが選択する)「思弁的な選択肢」とは別の、もう一方の道なのだった。メイヤスーは、主観的観念論を、そちらを選択すると、私の「非存在の可能性」を思考できなくなるという理由で退ける。しかし青山拓央は、それをもって(こちらは「世界の」だけど、それは「私の」にも通じる)「非存在の不可能性」を導く。
(もちろん、これは直感的でかなり粗い比較で、二人の議論がぴったり重なって逆向きになっているというわけではないです。)以下、『有限性の後で』から引用。
《(…)相関主義における脱-絶対化の議論---それは逃げ道なきものに見えるが---、それは、二つの決定のうちのひとつを暗に絶対化することでしか機能しないということだ。では、観念論に抗し、相関項を脱-絶対化することを選んでみる---しかしそれは、事実性を絶対化するという対価を払ってのことなのである。他方、思弁的な選択肢に抗し事実性を脱-絶対化することを選んでみる---その場合、私は、事実性を相関性の優位(あらゆる思考は思考の行為に相関していなければならない)に従属させ、この事実性は私にとってのみ真であり、それ自体において必然的に真なのではないと認めることになる。しかしこの選択肢は、相関性を観念的に絶対化するという代価を払ってのことなのである。というのは、私の〈非存在の可能性〉が思考の行為に相関していなければならないというのであれば、私の〈非存在の可能性〉は思考不可能であるからだ。したがって相関主義は、これら二つの原理を一挙に脱-絶対化することはできない。一方を脱-絶対化するために他方を絶対化する必要があるのだから。ゆえに、私たちは循環の支配から逃れる二つの道をもっている---相関項の絶対化か、事実性の絶対化か、である。》
●たとえば、青山拓央は次のように書いている。この部分だけみると、メイヤスーの言う、強い相関主義から主観的観念論という流れ(強い相関主義から思弁的な哲学へと進むメイヤスーとは逆方向の道)にみえる。
《(…)「諸可能性の中から一つを選択して現実化するライプニッツ的な神」ではなく「諸可能性の全体を初めて創造するデカルト的な神」こそが、世界の内容的規定に組み込まれない世界創造をなすことができるが、その創造において神が何をしたのかを---内容的規定に組み込みえない以上---われわれはけっして捉えられない。私はこれに同意するからこそ、その無時間的な「創造」を、それがなされなかった「可能性」を背景に捉えることもできないと言いたい。》
《なるほど、九鬼の言う経験的次元から形而上学的次元へと昇るとき、「存在の無限の可能性の充満」たる絶対者(神)を見いだすことにより、この世界はその始原において他でもありえたものに見える。だがそれはけっして、世界そのものの「無」がこの世界の「有」に対する他の離接肢となることを意味しない。この世界の「有」の離接肢となるのは他の可能的な世界の「有」であり、「無」をそれらと併置することはできない。(…)たとえば水が「液体でなくて固体でも気体でもあり得る」と述べる際の「ない」を、世界そのものの「有」に対する「無」として読むことは許されない。》
《(永井均『これがニーチェだ』からの引用)ただそれを生きている者は、それを語る必要がないだけでなく、そもそもそれを語る視点に立つことができないはずだからである。永遠回帰は、目的なき日々の無意味な繰り返しのうちで、世界と一体になって無邪気に遊ぶ子供の、現在の肯定感そのもののうちに自ずと示されるほかはない。そこには、他である可能性との対比という様相の厚みがない。こうであったら、とか、こうでありえたかも、という可能性の視点そのものがそもそもない。》