●スポーツの中継を、そのルールも目的も分からないままで観ている。多くのプレイヤーがいて、それぞれが異なる役割、目的で動いているようにみえ、全体でとても複雑なフォーメーションが形作られているようにみえる。しかし、しばらく見ているうちにふと、それがすごく単純な原理に基づく、単純な点取りゲームであることに気付く。そして、プレイヤーたちの数や配置や動きのほとんどが、ゲームの勝ち負けの合理性とはあまり関係がないらしいことが分かってくる。とはいえ、それがまったくの出鱈目というわけではないらしいことも分かる。多くのプレイヤー(役割)のそれぞれは、ゲーム上で合理性とはまったく別の合理性に基づいて動いているようなのだ。少数のプレイヤーの原理は、ゲームの勝ち負けにかなり関係があり、別の何人かのプレイヤーの原理は、ゲームの勝ち負けに少しだけ関係があり、多くのプレイヤーはほとんど関係がない。ゲームの勝ち負けに関係がある部分だけを見ようとするならば、それは単純すぎて退屈なゲームである。
だから、ゲームのルールがわかってしまえば、最初になにも分からない状態で「探りながら」観ていた時の面白さや興味はなくなって、いったん退屈する。しかし、ではなぜ、ゲームの勝ち負けにほとんど関係のない原理や、まったくと言っていいほど関係のない原理で動くプレイヤーが、同じフィールドで、あたかも一つのゲームに参加していかのように動いているのだろうかという疑問がわいてくる。そして、別に、必ずしも単純な点取りゲームの進展だけに注目して観なければならないということもないことに気付く。
『境界線上のホライゾン』の第一期を改めて観直しているのだけど、このアニメを観るということは、上に書いたようなことを経験することなのだと思った。これを、内容の空疎さを過剰な手数で無理やり埋めているとか、イメージのインフレーションが起こっているとかいうことも出来るのだけど、そう言って済ますことの出来る閾値を超えてしまって、別の様相があらわれているようにも思われる。かといって、では、これが面白いかと言われれば、面白いと言い切ることは難しい。