●昨日はいろいろ美術館をまわった。ずいぶん久しぶりに原美術館にも行った。ルイ・シャフェスという人の彫刻はぼくにはよく分からなかったけど、ペドロ・コスタの映像インスタレーションはちょっと面白かった。というか、ペドロ・コスタが撮っている映像はもはや「映画」とは別物なのではないかということが、美術館という場所で空間的に映像が配置されることで感じられた、ということだと思う(『ヴァンダの部屋』と『コロッサル・ユース』の撮影時に撮影された映像を使用した作品があった)。これらの映像は、映画として連続した時間のなかに配置されるよりも、時間的にばらけたものとして空間内に置かれて方が、ずっと、いろいろとよく見えてくるものであるように思われた。といっても、いわゆる映像を使った現代美術作品の「映像」ともちがった感じ。
いや、例えば『コロッサル・ユース』の映像素材(ヴァンダが移住させられた部屋で、ヴァンダとヴェントゥ―ラが二人でいる場面)を使った「ガザル ダ ボバ地区」という作品は56分という長さをもつから、それを最初から最後まで通して観ようとすると、やはり「映画」になってしまうのだが、固定画面で、二人の人物が狭い部屋のベッドの周辺にいて、寝ていたり咳をしていたりするだけが延々とつづく、壁に投射された映像を、美術館という空間で、立ったままで五十分も見続ける人はほとんどいないだろうし、いないと想定して作られているだろう。だから、この作品の「どの局面」を目にすることになるのは、観客がどのタイミングでそこを訪れたのかという偶然に依存していることになる。そして、どの程度の時間そこに留まるのかも、観客の気まぐれにまかされる。
で、そういう方が、この映像(音声)に映されているもの(二人の人物が発する身体的ノイズ=息遣い、咳、寝息、等々の合成による、ある身体的な感触、そしてそこにある時間の感触)を、ひとつながりの時間の流れのなかで見るよりも、ずっとよく見て、生々しく感じとることが出来るように思う。時間のなかに置かれるよりも空間のなかに置かれた方が、「時間」がよく見える、という感じ。観客はぶらっとそこを訪れ、飽きたら立ち去って、しばらくしてまたぶらっと戻ってくると、ちょっと様子が変わっていて、またそれをしばらく見る。映画として一本にまとめられてしまうと、どうしたってそこには、一本の映画としての時間の連続的な流れが生じてしまって(いかに、時間が流れないようなモンタージュにしてあったとしても、どうしても観る側がそれをつくってしまう)、個々のカットや人物、事物のもつ時間もそれに従属する感じなってしまう。
だけど、その一方で、東京都写真美術館の地下でやっている「記録は可能か。」に出品されていた『三里塚 第三次強制測量阻止闘争』(小川伸介)は、薄明るい美術館の壁に、別の映像たちと並列的に投射されている(他の映像たちの音声も聞こえている)という状態で「展示されて」いたとしても、まさに「映画」以外のなにものでもない感じでどーんとあって、おおーっと思って興奮して、その場で立ったまま(椅子はあったけど埋まっていた)五十分通して最後まで引き込まれて観てしまった。とはいえ、このような映画的な時間がリアルな強い吸引力を持つのは、このような闘争がリアルだった時代に作られたからで、今、これを再現しようとしても、それは少し違うものになってしまうのではないかとも思う(例えば、アンゲロプロス長回しは革命や政治的抗争がリアルだった時代の形式で、だから晩年のアンゲロプロスにはぼくはあまり納得していない)。で、じゃあ今、どうすればよいのかという問題の最適解の一つとして、ペドロ・コスタのやっていることはあるように思う。ただ、そう思う一方で、ではそれがどこまで本当に魅力的なのかと言えば、ぼくにはちょっと疑問がないわけではない(アニメの方が、あるいはリンチの方が、魅力的だと思えてしまう)。魅力的ではないということではなく、魅力的ではあるけど、『三里塚』とかの力と拮抗し得るのか、ということなのだが。
ただ、そんなことを思いつつ、しっかり刺激は受けていて、帰りに新宿に寄って(京都まで往復してお金もなくなっているのに)『コロッサル・ユース』のDVDを買ってしまうのだった。で、帰って、観て、画質が悪くてがっかりした。DVDの画質には、時々外れがある。
●『たまこマーケット』一話。『氷菓』、『中二病…』と革新的な路線で来て期待していた京アニ新作だけど、一話を観た限りではぼくの苦手な方の京アニテイストみたいなので、ちょっとがっかりした。昔なつかしいアニメの感じを、現在の京アニクオリティで再現するという感じなのだろうか。でもまあ、この先どういう方向へ行くのか、もう少し様子をみてみたいと思った。