●八丁堀のミルクイーストで「Self-Reference Reflexology」、その後、渋谷のアップリンクで「サロメの娘 アナザサイド(in progress)」(七里圭)。「サロメの娘」は上映後にトークがあったけど、電車の時間が微妙なので(途中退出が難しいような奥の席に座ってしまったこともあり)トークは聞かずに帰った。
●美術としての映像作品と映画のけっこう大きな違いの一つに、映画は観客に向けて上映されるけど、映像作品は観客がいなくても勝手に流れつづけている、というのがあると思った。
●「サロメの娘」は、上映がはじまったところで、ヤバい、これは眠くなっちゃパターンかも、と思った。ぼくは、時間と空間やイメージの明確な分節を拒んだような映像と音とがつづくと眠くなってしまって、ちゃんと観ることが出来なくなってしまう。ある複雑さが、それを構成する個々の像が粒立ったままで構成されるのではなく、個々の像の輪郭を溶け合わせるように構成されてあると、ぼくの場合ほぼ確実に眠気の方へ流れていってしまう。これは個人差があり、ぼく自身の知覚と情報処理能力の傾向性の問題もあるのだと思うけど、複雑さのあり様が、覚醒を促す方向にいく場合と、眠気を誘う方向にいく場合とがある。あと、その日の体調もあって、今日は電車のなかで大瀧詠一を聴いていて眠ってしまったので、眠りの方向へといきやすい日なのだとも思う。例えば、ゴダールを観るとだいたい興奮して頭がバキバキに覚醒状態になるのだけど、日によっては眠くてたまらなくなる場合もある。
でも、途中で何度か眠くなる方向に行きかけたとはいえ、最後まで眠くはならなかった。それは、ぼくにとってはテキスト(語られる文)の引っかかりがあったからだと思う。テキストの像が粒立っていたことと、テキストの構造(組み立て)がみえやすかったことを杖にして、眠りの方向に引きずられそうになるのが踏みとどまれたという感じ(あと、映像的には「ワンゲル部」の部分が異質で、他のパートの溶け合う感じに比べて粒立っていたことも杖となったと思う)。単純に言えば、テキストがとても面白かったから眠くならなかったということだけど。
ぼくにとって不思議な体験で、映画を観ていて眠くなった場合は抵抗しても無駄で、どうせ無理してもぼんやりしてちゃんと観られないのだから、とりあえず眠気に任せて寝てしまうしかないと思っているのだけど、この映画の場合、今にも眠くなってしまいそうだという予感がずっとありながら、でも結果として最後まで眠くはならなかった。半醒半睡というのではなく、あー、なんか眠くなっちゃいそうだ、と感じながら、眠くはならなかったということ。でも、バキバキの覚醒状態というのではなく、頭の芯は軽く痺れている感じではあるので、十分に集中して観られた感じでもない。
今日がたまたま眠りの方向へいきやすい日だったのか、次にこの映画を観ても同じ感じになるのかは、もう一度別の日に観てみないと分からないので、この映画について断定的なことは何も言えないのだけど、おそらくこの映画は、映像としては、黒田育世のパート、長宗我部陽子のパート、飴屋法水のパートなどがそれぞれ個別にあって、それがテキストの語り、あるいは音響のなかで関係づけられてゆくというつくりになっているのだと思われる。音(+テキスト)という台紙の上に、由来の異なる映像を切り貼りすることで、ある図像をつくってゆく、というような。でも映像の部分で、個別のパートの個別性がやや弱いので、関係づけられるというより、混じり合って一つのトーンに統合されているように感じた。それが狙いなのかもしれないけど。
音の複雑さ(混ぜ合わせ方)と映像の複雑さ(混ぜ合わせ方)とが、同調し過ぎているのかもしれない。ぼくとしては、映像の面で、もう少し個別のパートの個別性が粒立っていた方が面白く感じられるように思った。あるいは、音に対する映像の独立性がもう少し高い方が面白い気がする。でも、これは好みの問題なのだろうか。
(音と映像とが同調し過ぎているから「眠くなりそう」になったのか、ぼくが「眠くなりそう」な状態だったから、そう見えてしまったのか、が、分からない。もう一度観られるかな……。)