●すごく明るい月が出ていて、その前をはやい速度で雲がぐんぐん流れてゆくのをしばらく見ていた。『ゼロ・グラビティ』を観た後だと、夜空を見上げる感覚がすこしちがってくる。上下がひっくりかえるような感覚と、とりとめのなさへの恐怖のようなものが前面にでてくる。
●『ゼロ・グラビティ』の3D映像を観ていてずっと、物が観客の方へとぐわーっと迫ってくるような描写に違和感をもっていた。例えば、人工衛星の破片のようなものが、観ているこちら側へ向かって飛んできて、これがこのまま飛んで来れば当然、自分に当たるか、あるいは傍らを通り抜けて後方へと飛んでゆくはずだというようなものが、途中で不自然に向きを変えて、フレームの外へと逃げてゆく。これがとても気になった。
映画にフレームがある以上、これはこうするしか仕方がなくて、もし、物がこちらへ飛んできて、傍らをかすめて後方へ飛び去る、というようなことを実現するのならば、映像が視界の全てを覆うしかないだろう(スクリーンのフレームが視界に入らないほど近くで観たらどうだろうか…)。これは映画の3D表現のもつ原理的な限界のようなものだろう。
ここには、フレームを設定するか、しないかという大きな違いがある。フレームがある以上、いくら臨場感があるとはいえ、「ここ」と「そこ」は切り離されている。
(とはいえ、「音」にはフレームがないのだ。例えば、サンドラ・ブロックがソユーズの船内にいる時、外からジョージ・クルーニーがコン、コン、と窓を叩く場面があった。ぼくはこの時、実際に、映画館の扉を外から誰かが叩いているのだと、一瞬思った。このような混同は、映像がいくら精度を増そうが、スクリーンというフレームを前提とする「映画」の映像では起こらないだろう。)
映画というものが、あくまでスクリーンというフレームを前提としたものとして、今後もやってゆくのか、それとも、視界の全てを覆うメガネをつけるなどして、フレームを撤廃する方向に行こうとするのかは、かなり大きな違いとなると思う。これはたんに映画だけのことではなく、我々の文化がどのような方向にゆくのかということでもあるだろう。近代芸術というのは何より、フレームに対する意識が前景化したものだ、とも言えるから。
ただ、これはフレームが(フレームに対する意識が)なくなるというのではなく、フレームがより多重化し、複雑になり、柔軟になる、ということであると思う。視界を完全に覆ったバーチャルな空間のなかで、スクリーンに映った映画を観る、ということも出来るし、壁にかかった絵を観ることも出来る。あるいは、我々は、メガネをかけることで得られる世界と、かけていない状態で見る世界という二重の世界を生きることになる。あるいは、プロジェクションマッピングや透明なスクリーンなどのように、映像の方が従来のフレームの外に出てくるということもある。それは、眼だけでなく、体全体で多重化した様々なフレーム間を行き来することを強いられるということだろう。
『ゼロ・グラビティ』に関して言えば、もしこの作品を「視界をすべて覆うメガネ」のようなもので観るとしたら、おそらく、上下の区別もなく宇宙空間をぐるぐるまわるような映像に観客は耐えられなくなってしまうのではないか(リアルな、宇宙飛行士訓練用のシミュレーションのようなものになってしまうのではないか)。上下を徹底して相対化しつつも、観客に対しては、安定的なフレーム(スクリーン)が確保されているからこそ、観客は(半ばその外にいることで)「空間の相対化」を経験できる。このような意味でも、『ゼロ・グラビティ』は、様々な要素を取り入れて巧みに落とし込んだ、絶妙に中途半端な作品なのだと思う。