●『ダージリン急行』(ウェス・アンダーソン)では、しかるべきここぞという場面で、これだという曲が流れる。これは、ちょっとズルいと思いもする。ただ、この映画で、例えばローリングストーンズが流れる時、それは映画を盛り上げたり、感傷的な気分をつくったり、登場人物たちの心情と観客とをシンクロさせたりするためにその曲が使われるという感じがあまりしない。それは、映画のフレームのなかに、あの変な柄のボストンバッグが現れたり、インドの風景が写り込んだり、ふいに、顔中包帯だらけの男が現れたりするように、もともとあったものが、それにカメラを向けることで(それがカメラの前に置かれることで)フレームインしたかのようにあらわれている。それは、例えばiPodのシャッフル機能を使って聴いているときに、たまたま、予期せずいきなりかかった聴き慣れた曲が、ふいに新鮮に聴こえるような感じで、あくまで「その曲」としてそこにある感じだ。だいたい、ローリングストーンズはあまりに有名過ぎて、耳に馴染んでいすぎて、自分から聴こうとしてCDをかけると、「ああ、ローリングストーンズだ」ということを確認するだけで終わってしまったりしがちだ(あるいは、自分の「ローリングストーンズを聴きたい気持ち」を確認するだけ、とか)。この映画では、えっ、ここでローリングストーンズか、という配置の意外さと、えっ、ズルいんじゃないの、という思いは確かにあるけど、それと共に、「その曲そのもの(「プレイ・ウィズ・ファイア)」がそこにある。それは、あの柄であの大きさのスーツケースや、あの顔の三兄弟が、映画を構成する要素の一つとして選ばれたのと全く同等に、「その曲」が映画の一部として選択されている感じがする。(『ダージリン急行』で唯一の不満は冒頭のビル・マーレイの乗るタクシーの疾走の場面で、これはあまりに分かり易く「映画」っぽすぎるんじゃないかと思う。)
一方、『ミスター・ロンリー』(ハーモニー・コリン)の冒頭で、スローモーションの画面にかぶるように流れる「ミスター・ロンリー」は、その曲のもつ甘くて感傷的な「気分」が、これからはじまるこの映画を支配しているとあらかじめ宣言しつつ、観客がその気分と同調することを要求している、というか、その同調を期待し、それに寄りかかっている感じがする。観客はその気分と同調することで、これから起こる様々な出来事をあらかじめ予想しつつ、安心してそれを受け入れる準備をする。そしてこの映画は、予め与えられたこの気分をはみ出したり、裏切ったりする瞬間が(まったくないわけではないにしろ)あまりなくて、その気分のなかへと収束してゆく。あるいは、その「気分」によってかろうじて「作品」としての統合を得ている。
例えばリンチの映画でも、ある曲がかかって、その曲のもつ気分や感情がすべてを塗りつぶして、映画もそれを見ている観客も暴力的にそれに染め上げれられてしまう瞬間がある。でも、リンチの場合それはあくまで強引で暴力的であり、同時に(だからこそ)「その場」だけのことで、そこでかかる曲の感情が映画全体を予測させたり、映画全体がそこへ収束していったりはしないと思う。『インランド・エンパイア』のラストの「シナーマン」は全てを押し流してしまうかのように強力だが、それはやはり「その場だけ」の限定されたものなのだ。