08/01/12

●必要があって、『少女革命ウテナ』(97年)と『フリクリ』(99年)とをちょこちょこと観直しているのだけど、改めてこの二つの作品が驚くべき傑作であることを思い知らされる。ぼくはアニメに関して、そのほんの表面を撫でているだけでちゃんとした観客とは言えないのだが、90年代終わりの時期こそが、日本のアニメーションの絶頂期であるように、この二つの作品を観るとすごく思う。(そのテンションを生んだのはやはり『エヴァ』なのだろう。そしてその質的充実は、「世紀末」みたいな物語とはほとんど関係がない。)例えば『電脳コイル』などは、文化としてのアニメの成熟を示すような作品ではあっても、ブレイクスルーとなるような瞬発力があるというわけではない。(勿論、それはそれで素晴らしいのだが。)
フリクリ』は『エヴァ』の子供のような作品だろう。『エヴァ』は、その感情的同調性の直接的な強さと、ロボットアニメとしての造形力やメタモルフォーゼの表現の驚くほどの質の高さによって飛び抜けている。ロボットのメタモルフォーゼ、戦闘、破壊、爆発等の表現の精度を、あくまで快感原則にどこまでも忠実に従う方向へと高めて行くことの果てに、ふと、不気味なものに触れるところまでいってしまう。つまり、表現の瞬発的な強度という意味で飛び抜けた作品だろう。その一方で、物語的な主題の展開(追求)という意味では中途半端で破綻しているとも言える。そして、『フリクリ』は、『エヴァ』の優れた点をそのまま受け継ぎ、一種のセルフパロディとも言える形式によってそれをさらに凝縮させたかのようだ。物語的な主題はセルフパロディのような形によって縮小され、その一方、ロボットのメタモルフォーゼ、戦闘、破壊、爆発等の表現の精度の方こそが、より純粋化されて前面に出て来る。感情的な同調性は、断片化された物語素の圧縮的な過剰によって担われ、その、複数の断片的物語素と、表現のマテリアルとも言えるロボットの造形、メタモルフォーゼ、戦闘、破壊、爆発等の表現が、同一の画面のなかで圧縮的に混ぜ合わされ、画面は常に多方向へと向って行く複数の運動が共存する場となっている。特に驚くべきことは、言葉によって書かれたらたんに陳腐としか思えない比喩的表現が、アニメであることによって、具体的イメージと、動きとリズムとをもつことで、まったく別の独自の質を獲得している点であろう。(ハリウッド映画が生産するイメージに比べて日本のアニメが圧倒的に勝っているのは、メタモルフォーゼの表現の質の高さだと思う。)
ウテナ』はひたすら冗長であり、徹底して冗長であることによって、他に例のない孤高の傑作となっている。ここまで、同一の主題をしつこく、徹底して展開し、追求した作品は他にないのではないだろうか。『エヴァ』とは真逆で、瞬発力ではなく、持続力によって抜きん出ている。毒をもって毒を制するように、物語をもって物語を制するような作品。『フリクリ』のような圧縮された多方向への動きはなく、むしろ単調な反復運動の繰り返しのなかで物語はあくまでも単線的に進行し、うねうねと蛇行する。半ば退屈しながらも、物語の毒なかにどっぷりと浸され(しかしそれは、物語のベタな消費を許さない緊張感を常にともない、しかし安易にメタレベルへと逃れる道は塞がれている)、人が物語には把捉され、捕われてしまう様々なバリエーションのなかを巡りゆき(だから、圧縮された映画版はまったく面白くない)、その執拗さにあきれ、半ばうんざりしながらもその地獄巡りに付き合い、よりそって進むことで、最後には思ってもみなかったような場所にまで連れてゆかれることになる。(姫宮アンシーはきわめて特異なキャラクターだ。ラカンの言う「女は存在しない」そのままのようなキャラクターだろう。そして、この物語は、ウテナの物語であるより、ネガティブにしか存在しないはずのアンシーの物語としてあるとろが凄い。)