08/01/11

●『ムーたち』が面白かったので、『ゴールデンラッキー』と『えの素』をちょっとずつ読んでいる。(この人のマンガは、一気にダーッとは読めない。)榎本俊二という名前は前から知っていたし、『えの素』はちょこちょこ読んだりしたのだけど、これまではあまり面白いとは思えなかった。『ムーたち』を読んだことで、「この世界」への入り口が得られたように思う。
1月6日の日記にも書いたけど、この人の作品の特徴は、世界からノイズの多くをすっきりとカットすることで、日常的現実の次元から後退し(つまり日常的現実の世界を構成する因果律から解き放たれて)、記号や記述の次元での整合性によって作品が制御されている点だと思う。ここでノイズとは、世界に厚みや安定性をもたらしている意識されない感触のようなもので、それは一方で「記憶」からやってくる上澄みや澱のようなもので、もう一方では、知覚されても意識されないほどに微かな世界の振動のようなもののことだ。そのような「含み」がすっきりとカットされてしまっていることが、以前のほくにとってこの作家の作品への違和感というか、入り込めない感じの原因だったのだろう。この作家の作品においては、世界は大胆に記号化され、その域はきっちりと限定されその外はなく(例えば『ゴールデンラッキー』に比べれば、『えの素』はその扱われる音域が広くとられてはいるが、その厳密な限定性はかわらない)、その展開のルールは一定に保たれるように思われる。だから、まず、この作家のマンガを読む時のもっとも分かりやすい快感は、現実的な世界から切れ味鋭くスパッと切り離される快感であろう。(これはある意味、とても幼稚な快楽でもある。言葉を憶えたての子供が、しばしば「大きなアリと小さなゾウ」みたいな言葉遊びを好み、その記述の次元での規則性の快楽と、それが世界と乖離していることの滑稽さの快楽を楽しみ、そしてそれが「言語を操る」行為の能動性の快楽とつながっていることに、とても近いのではないだろうか。さらに、この作家の作品に頻繁に、あまりに安直に「死」があらわれるのは、死という未知の恐怖を「記述」の秩序に強引に従わせたいという強い願望と、その恐怖へチラッとだけ触れる快感によるのではないだろうか。)
日常的な現実の感覚からすれば、その世界は不条理であり逸脱に満ちているが、作品内部の規則は厳密であり、そこに破調や逸脱はあまりない。作品はあくまで、その作品の記述の規則のなかで展開される。この厳密な規則性は、揺らぎのない強力なリズムを生み、そのリズムによって生じるグルーヴ感が、この作家の作品の大きな魅力となる。この作家の作品では「あるコマ」に視線を長く留めることは難しい。読むことには、ある切迫感を強いられる感じがある。展開のはやさや飛躍のリズムだけでなく、絵柄や描線の次元でも、それは滑らかでありひっかかりが少ない。(しばしば登場する排泄物や吐瀉物も、臭いや粘性をあまり感じさせず、サラサラしているかのようだ。きわめて下ネタの多い『えの素』にさえエロの要素は希薄なのは、この、臭いと粘性の希薄さによると思われる。理知的で清潔な下ネタなのだ。)読者は、考えたり立ち止まったりすることなく、まずはこのグルーヴに「乗ってみる」ことからしかはじまらない。記述の次元での規則性は、ノイズがカットされていることでリズムの規則性を際立たせ、ひとつひとつのイメージの不条理性への違和感に立ち止まっている時間は、それほど長くはない。ひとつひとつのイメージ(と、それへの違和感)を楽しむというよりも、それらのイメージが次々と展開されるリズムを楽しむという傾向が強く感じられる。(しかしこのグルーヴ感は、かならずしも読む「速さ」によって生まれるものではない。ひとつひとつのイメージによる抵抗を、その都度きちんと受け取ることの連続によってしかグルーヴは生まれない。だから読む速度それ自体は速くは読めないし、少し読むだけで疲れる。)ひとつひとつのイメージへの違和感(イメージを味わう事)は、このリズムからやや遅れてやってくるかのようだ。
こう考えると、榎本俊二吉田戦車の対極にいるかのように思われる。吉田戦車のキャラクターやイメージは、ノイズとノイズの相互干渉から形作られ、意識以前の記憶の澱や上澄みがその説得力を保証するもののように思われる。つまり、それは記述の次元では整合性をもたず、記憶と身体の次元から立ち上り、そこに起源と価値をもち、それが記号に付着したかのように感じられる。たどたどしい描線は、記号と臭いとを結びつけるのに役立ち、動物的キャラクターは、人間の「人間以前の記憶」と結びつく。作品の展開も、リズムを脱臼するような外したテンポで行われ、時間は漂いだし、線状の時間は解体されたかのようだ。吉田戦車における日常的現実からの乖離は、記号-記述の次元のリズミカルな暴走によるのではなく、過剰なほどに繊細なノイズの聴取と、記憶への深い沈降によってなされるように思う。(吉田戦車の世界は常に「懐かしい」が、榎本俊二の世界は懐かしさからの離陸-切断によってこそ成り立つ。)
吉田戦車のようには、記憶や世界との直接的な繋がりをもたない(というか、「切断」をこそ強調する)榎本俊二のイメージは、しかし、その展開のリズムとグルーヴによって、再び身体との繋がりを得るように思われる。日常的現実の次元から記号-記述の次元に移行することで純粋な振動そのものになったかのような作品のリズムが、そもそも外的現実とは切り離された身体そのものの律動としてある欲動の流れと、ふっと同調した希有の一瞬に、そのイメージ、その作品は、記憶-身体とは別のところにある律動-身体へと作用する、のではないだろうか。(例えばその時、排泄という行為は、排泄物というフェティッシュから離陸して、たんに排泄するという行為-感覚となる、とか。)