●今まで特に興味なかったけど、下記のブログの六月四日の記述を読んで、『ブラックスワン』に興味をもった。
http://blog.livedoor.jp/spiderswithme/
《(…)この映画のもっとも本質的で重要な対立は、アナログとデジタルの形式的な対立、この抑圧構造。
実際この映画の実写とCGの比率は今後のスタンダードになるだろう。》
《人間の欲動をあらわにする、デジタルの即物的な映像的機能性を、アナログな物語構造(母娘の抑圧的な関係とスポ根)が抑圧しているが、二ナのケミカルドラッグの服用を境に両者の境界が曖昧になってゆき(セクシャルな表現もごく肉体的なポルノグラフィック部分と、デジタルによる編集のリズムによるより触覚的な快感の部分とが分離と融合を繰り返す)。
二ナの自我、つまりその説話論的な物語構造が崩壊する。
象徴的に鏡と瞳が破壊、加工=仮構され、ここまで維持されてきたドキュメンタリータッチとメロドラマの形式的な対立、緊張関係もデジタル処理によって統合される。》
《二ナの妄想面は全て、CGを使用してる点に注意したい。
幻覚を誘発するのも、ケミカルドラッグだ。マリファナではない》
●デジタルテクノロジーによって精神分析的主体(抑圧、物語)が機能しなくなってしまうという感触にはとても興味がある。勿論、人は基本的には、今後も(おそらく当分は)精神分析的な意味での抑圧がなければ「人として」生きていけないし、神経症的主体として自己を構成しなければならないことは変わらないと思う。そうである限り「物語」は常に必要とされる。でも、デジタル的な感触によって、その抑圧の効力が、部分的には崩壊してしまう、あるいは、部分的にしか機能しなくなる。その時、その空白に何が生まれるのか、というようなこと。
例えばそれは、鎮西尚一の二つの近作、『み・だ・ら』(これはDVDソフトとしてのタイトルで正式な作品名は『スリップ』というらしい)と『ring my bell』との感触の決定的な違いにあらわれていると思う。フィルムで撮られた『スリップ』は映画として傑作であるが、デジタルビデオで撮られた『ring my bell』はそれとは異なり、むしろ小林耕平の作品の感触に近づく。勿論、デジタルでもフィルムに近い感触で撮ることは可能だろうし、実際そのようにしてつくられた優れた作品もあるだろう(『結び目』とか)から、たんにデジタルだということが問題というわけでもない。
精神分析的主体とは表象・代表制の問題でもあって、本来、錯綜する諸欲動の束でしかない人間を、抑圧によって取り押さえ、象徴的な網によって一つの主体として織り上げてゆくということが問題となる(この辺はかなり雑な言い方をしています)。でも、フィルムと違って、デジタルカメラの、全てを均等に詳細に映し出してしまう画面は、諸欲動そのものを顕在化させてしまうかのようで、それを一つの塊や秩序や流れとして制御するのが困難になる。それはつまり、映画における、作家性とか、物語とか、演出とか、主題論的な制御とか、ぴたっと決まった構図とか照明とかモンタージュとか、そのような、諸欲動(諸細部)を何かしらの形象(イメージ)によって(抑圧し)代表させるような統合的な操作が困難になる(あるいは、そのやり方が変質せざるを得なくなる)。イメージの質が問題になる時の、その、統御された「(形象としての)イメージ」そのものの成立が困難(というか、微弱?)となる。「見えるもの」があまりにも多すぎて、「見るべきもの」を探し出す(差し出す)ことが難しくなる。あらゆるものが等しく露出することで、露出されつつ半ば(環境-地へと)埋没する(平板化する)。見ることは、意味(物語)によって制御出来ないだけでなく、形象(イメージ)によっても制御出来なくなる。勿論、それだけだったらたんなる混沌とか混乱でしかない(「そのような感じ」で、たんに出来の悪い作品はいくらでもあるだろう)。
それは、世界が様々な細部のもつ個々の感触へと解体され、主体がその雑多さのなかに飲みこまれて身動きができなくなるということだろう(鏡像段階以前への退行に近い感じ)。細部を縮減し、自己が抑圧的に加工されることではじめて、人は世界のなかでの意味と能動性を得る。つまりそれは、ここでは物語を語ることや演出を行う(イメージを操作的に示す)ことが可能になるということと同値だ。だからここでも、抑圧による主体化(代表制)はなおも要請される。つまり何かしらの演出やフレーミングといった統合-操作は当然あるだろう。しかし、デジタルビデオによる画面では、その統合からあまりに多くのものが零れ落ちてしまう(というか、零れ落ちるものが多くあることを示してしまう)。象徴からもイメージ(形象)からも零れ落ちる雑多なものたちの振動をノイズとして処理(無視)できないほどの、細部の詳細さと均等(平板さ)がある。
このような話それ自体は、別に目新しいものとは言えない。しかし、『ring my bell』や小林耕平の作品を観ると(あるいは、青木淳悟の小説からも、これらと極めて近いものが感じられるのだが)、そのような「お話」としてあったものが、感覚可能な感触として突き付けられる。それらの作品には、デジタル的な感触と不可分な操作が、つまり、物語や主題や演出や身振りや眼差しといった人間的な次元の記号操作としてそれを捉えたのでは十分に読み取ることの出来ない(いや「読む」という行為によっては捉えられない、というべきか)動きを孕んだ統合-操作がなされている。
それはあまりにもみっしり詰まっていて、あまりに複雑であるためにフラットにしか見えないというような状態で、しかしそれは身動きできないというより、様々な可能性がひらかれたままで共存している感触としてつくられている。そしてそこには、(フレームによる仮止めという以外には)統合されていない、(形象となりきらない)細かな動きが実際に無数に動いている。これを知ってしまった(体感してしまった)からには、もう後戻りできないという感じがする。そしてそれらの作品は、そのような状況(象徴や形象や意味の外、あるいはその力の大幅な減退)のなかで、「この身体」がどのように振る舞う(動く、生きる)ことが可能なのかについてのヒントを示してくれてもいる。
しかし一方で、我々は依然として普通に神経症的な主体でありつづけてもいる(精神分析の体系においては精神病でなければ倒錯か神経症となる)。だから、依然として抑圧は必要であり、象徴や形象は必要であり、よい物語が、よい精神分析が必要である(それが「強力」であることは認めざるを得ない)。おそらく、それらなしでは生きられない(人が「生きること」そのものが不可能になる)。
だけど同時に、その外(余白)にある、それだけでは納まりきれない何ものかの「具体的感触」を感覚的に知ってしまった。そうである以上、それを忘れることは出来ない。それは既に我々の生きる場所である。この、「感触」としか言いようのないものは、象徴によっても形象によっても把捉出来ないものであろう(勿論これは、欲動そのものの露呈というわけではないが、それに「きわめて近い振る舞いをするもの」とは言えるのではないか)。つまりそれは主体(代表制)によってでは把捉できない。抱え込んでしまったこのおそろしいなにものかを、それぞれの「この身体」がどう扱ってゆく(どうかかわってゆく)ことが出来るのかは、これからの芸術家たちの実践にかかっていると思う。象徴的な代替物によって把捉されない以上、それらは個々の実践としてなされるしかない
●何日か前に書いたけど、動きを、形と形の間にあるものとしてではなく、動きそのものとして、その動きの制御のされ方として、さらにその制御のパターンの変化(動きそれ自体が動いてゆくという「動き」)として、最低でも三つの層の同時進行として捉えるというのは、このような感触をより高い精度で受け取るため(つまりその内部で生きるため)に必要だということだと思う。
(例えば、既述してきたような状態を絵画が目指すとしたら、それはデジタル的な解像度-密度としてではなく、このような「動き」の複数性としてであろう。)
●繰り返すけど、我々は依然として神経症的であり、抑圧に把捉されることで主体となり、対象関係によって刻印された他者への愛/憎を燃料として世界に開かれ、欲望を媒介として意味や象徴を交換することで他者と関係する。この次元を軽く見積もることはまだまだ出来ない。だからこそ、その都度、その都度で、この重力からどうやって逸脱するか、どうやって神経症システムに着地しないでその裏をかくことが出来るか、どうやって違う「動き方」を生み出せるか、が、とても重要だと思うのだ。それはその都度の具体的実践(動き方)としてなされるしかないだろう。そしてそれは、普通に至るところで実現されてもいるはず。
●『ゴダール・ソシアリスム』にしても、『魔法少女を忘れない』にしても、『ring my bell』にしても、ぼくには最近、デジタルで撮られた映画のデジタル的な感じがやたらと面白く感じられる。つまり、そこに強く可能性を感じるようになった。勿論、前にもデジタルで撮られた面白い映画はたくさんあっただろうけど、特にそのデジタル性を(可能性として)意識することはあまりなかった。やはり、(小林耕平も勿論だけど)『ゴダール・ソシアリスム』を観たことが大きいのかも、と思う。
そのことはもちろん、例えば『スキップ(み・だ・ら)』が映画としてすばらしい作品であることにケチをつけるものではまったくない。別にデジタル礼賛をしているのではなく、「動き方」の可能性は様々なところに開かれているはずであり、その一つとして、デジタルビデオによる低予算映画のあり様に、今までぼくが知らなかった種類のそれが見出せた、という話。