●昨日の日記の途中で、いきなり青木淳悟という名前が出てくるのはいかにも唐突だけど、実は今、「私のいない高校」を読んでいる。「私のいない高校」は、「群像」に発表された時に(少し遅れて)読んだのだが、書評を書くために、ゲラの状態で改めてじっくりと読んでいる(本はまだ出てないみたい)。じっくりと読むと、一見、のっぺりとした平板な記述が延々とつづいているようにも見えるこの小説が、一文、一文の単位で断絶と飛躍と錯綜に満ちていて、まったくなだらかではないことに驚かされる。いや逆に、こんだけごちゃごちゃなことやってるのに、なだらかに読めてしまうということに驚かされる。
例えばサッカーを観る時、ひいきのチームの勝ち負けとか、ひいきの選手の活躍とかいう次元で観ても十分楽しめるだろうけど、フィールドにいる22人の選手全員の動きやフォーメーションを漏らすことなくすべて見て取ろうという勢いで観る時の面白さには到底及ばないと思う(ぼくはサッカーを観ないので、あやふやな比喩になってしまっているけど)。とはいえサッカーでは、複雑なフォーメーションは、勝ち/負けという強いモチベーションがあってはじめて成り立つと言える。でも、青木淳悟の小説では、勝ち/負けという次元がなくて(あるいはきわめて希薄で)、フォーメーションだけがある、という感じだろうか。それはサッカーの試合をスローモーションで詳細に観る感じに近いかもしれない。実際、ぼくは今日、四時間くらい集中してがっつりと読んだのだが、35ページ分しか進まなかった(全部で226ページあるのだが)。しかしその四時間の何と楽しかったことか(丁寧に読めば読むほど、いろいろと見つかって面白い、超絶技巧過ぎるんだけど、その技巧それ自体が笑えるというか、楽しい)。
いや、そうじゃなくて、ゴールもボールも六つくらいある状態でサッカーしているみたいな感じと言うべきなのか。
そもそも青木淳悟の小説は、「先に進む」というような推進力によって書かれ、読まれるようなものではないと思う。それがつまり、勝ち/負けのような分かり易い(物語的な)吸引力がないということでもある。この辺りが昨日書いたこととつながるのだが、それはあまりにもみっしりと詰まっているからこそ、のっぺりと平坦にしか見えず、作品という全体性によっては統御されていない細かい動きに満ちている。「作品という全体性に制御されていない」というのは、作品という全体があってそのなかで様々な動きが配置されているというより、様々な動いてしまうものの動きがあって、それが作品というフレームを次々に横切ってゆくという感じのこと。この「細かい動き」の一つ一つをいちいち指摘することは可能だけど、それをしても、「意味」にしか反応しない人は、「だから何?」ということになるんだろうと思う。たんに「作品というフレーム」に仮止めされているだけで、「作品という全体性」に統御されることのない無数の細かい動きが錯綜し、みっしりと詰まっているという状態そのものの感触を(これが昨日書いたデジタルビデオ的な感触に近いものなのだが)、「おお、すげえ」と思うような人がどれくらいいるのかは分からないけど、半端なくすごいとしかぼくには思えない。
例えば演劇だったら、主題や物語や俳優の魅力といった分かり易い入口があるだろうし、ダンスだったら形の美しさや技の難易度といった分かり易いリ入口があるだろう。しかしその入り口のところに留まっていたら決して見えてこない風景があるのだと思う。繰り返しになるけど、それは、動きであり、動きの編成であり、動きの編成そのものが動きのなかで動いてゆくことである。そして、それをそのような状態として掴むことである。それは、意味という粗い把捉装置では決して捉えられない。意味は、事後的に事態を規定するが、動きは未来に向けて規定をすり抜けてゆく。しかしここで言う未来は、単線的な、推進力をもつ時間の流れによって生じるものではなく、流れを無限に分岐させ、むしろ広がりとなって時間を停滞させるように働く傾向をもつものだろう。実際、青木淳悟を読んでいると、「読んでいる時間の流れ」が様々な意味で解体される感じがする。
人間が意味を必要とし、意味によって生き死にするのだとしたら、これは非人間的、というか超人間的なことなのかもしれない(付け加えるが、これは非意味ということではない、非意味はあくまで意味に対しての非意味なのだから意味に依存するが、動きは意味による把捉を逃れて動くものだ)。だから青木淳悟の小説は、人間には高度過ぎるのかもしれない。あるいは、青木淳悟を読むことで、人間から少しはみ出すことができる。