●市役所などで、転出のためのいろいろな手続き。午後から天気が不安定になるということだったが、出がけに急に雨がパラパラ落ちてきた程度たった。午後二時過ぎに出た。アパートから水道局まで歩いて30分弱。そこから市役所まで5分。すっかりいい天気になって、きもちいいので、手続きは電話でも済むはずだけど東京電力までの20分強を歩くとこにした。そこからアパートまでは30分強くらいだけど、歩いているうちに髪を切ろうという気分になって美容院に寄る。前に髪を切ったのはおそらく去年の秋。美容院の近くの郵便局で郵便物の転送手続きをして、5、6分歩いて東京ガスの営業所へ。東京ガスからアパートまでの道の途中で、午後五時を告げる「赤とんぼ」のメロディーが聞こえてきた。ちょうどいい感じの、のんびりとした散歩となった。部屋に戻って一休みしていたら地震。六時前に急に風が荒れたように激しくなった。外から唸るような音が聞こえ、玄関がガタガタ揺れる。
青木淳悟さんが三島賞を受賞した。とてもよかったと思う。ところで、時々、「青木淳悟三島賞を獲った」というような言い方をする人がいるけど(ぼく自身も昨日電話でそういう言い方をついしてしまった)、それは間違いではないか。賞は「受ける」もので「獲る」ものではないのではないか。獲る、というと、青木さんが(あるいは書かれた小説が)三島賞を能動的に「獲りにいった」かのように、他の候補作と争って獲得したかのように、あるいは、賞を獲ることを目的として小説が書かれたかのようになってしまう。スポーツ選手が、オリンピックで金メダルを獲ることを目標として、ライバルと戦って、それを果たした、みたいに。その能動態は違うのではないか。
そうではなく、(1)青木さんはたんに小説を書き、(2)それが三島賞に相当すると誰かから評価され、(3)その評価を作者である青木さんが受け入れた(拒否しなかった)、という、三つの質の異なる出来事の集合が「青木淳悟三島賞を受賞した」という出来事の内実ではないか。ここで青木さんの能動性は「書く」ことにあるが、それは別に「賞」に向かっている行為ではないはず。「書く」ことと、書いたものがある文脈で「評価される」ことと、その評価を作家が「受け入れる」ことは、すべて別の次元の事柄であるはず。
評価されるのはとてもうれしいだろうし、書いたからには評価されたいという思いは誰でも強くあるだろう。それに、三島賞作家になれば(書きつづけられるための条件でもある)生活もすこし楽になるかもしれない。でも、それは目的ではなく結果であり、それらの結果としてやってくる受動的なものと「書く」ことの能動性とは同列にはないはず。
書くことを支える何かと、評価されたいと願う気持ちと、生活を安定させなければという必要性は、作家のなかにすべて重要な必然性をもつものとしてあるとしても、それぞれ別のもので、それを混同してはいけないのではないか。確かに、作家にとって賞は死活問題化かもしれず、そこには軽くない、かつ生臭いなにものかがあるのかもしれない。でも、そうだとしても、「賞を獲る」という能動的な言い方は、同等に生々しくあるとしても、同列にあるわけではないものを、混同することになるのではないか。
●青木さんは別に、自ら能動的に三島賞に「応募した」わけではなく「選ばれた」わけだけど、このことは自ら能動的に応募する新人賞とかでもかわらないのではないか。小説は、新人賞を獲るために、あるいは小説家としてデビューするために書かれるのではなく、たんに書かれ、それが誰かから評価されることで、陽の目を見るに至る。でもそれは、例えば文芸誌の新人賞で二千作くらいの応募があったとして、他の二千作と競争して「勝った」ということではないはず。「書く」ことの能動性は、「獲る」ことや「勝つ」ことに向かうわけではない。書くことの能動性は、ただ自らが「良いもの」となり「面白いもの」となることへと向かう。そしてその良さや面白さが別の誰かに届いた時に、そこにそれなりの評価が生まれる。それがいつの間にか、他の二千作との競争、あるいは二千倍の難関の突破という発想になってしまうと、「賞を獲る」というような言い方になるのではないか。
(ただし「誰かに届ける」ための戦略、あるいは「どこに届けるべきか(どこなら届きそうなのか)」ということは、いろいろ考える余地があるかもしれないとは思う。)
●青木さんの小説はまさに「他の小説と競争しない小説」であるところが素晴らしいのではないだろうか。
●スポーツの場合、そのゲームやプレーの質を維持し高めるためのモチベーションとして、どうしても勝ち/負けは必要なのかもしれない(でもそれは本当なのか、スポーツにおいても、素晴らしい選手やプレーへのあこがれや尊敬こそが人を駆り立てるのではないか、良いものに触発されるのは競争ではないのではないか)。確かに「闘争心」のような、生々しい力も必要かもしれない(とはいえ、闘争心の強さは性欲の強さと同様に、あるいは動体視力の高さなどと同様に、生物としての生得的な「才能」であって、「競争(競争率)」によって質が高まるという考え方はやはり間違っているように思う)。
しかし、芸術においては、勝ち/負けや競争が、その制作のモチベーションになってはいけないのだと、ぼくは思う。作品の質的な維持や高まりは、それとはまったく別の、作品自身の必然性によってなされなければならない。というか、勝ち/負けや競争によって生まれる作品はたんに退屈だ(と、ぼくには思われる)。
勿論、現実の問題として、社会的な評価や経済的な問題は常にあり(もてはやされる人もいれば、制作の続行を諦めざるを得なくなる人もいる、すべての「良い作品をつくる人」が同等にやっていけるわけではない)、その、必然であり偶然でもある残酷さから逃げることはできない。でも、制作の必然性がそこからきたらダメなのだと思う。社会的、経済的な問題から逃れられないことと、それらにすべてが還元されることとは全然違う。
●Aという作品が良いか悪いかということと、Aという作品とBという作品とCという作品が戦ってAが勝つか負けるかということは、まったく別のことだ。実際問題として後者(競争)がなくなることはないとしても、前者(良し悪し)と後者(勝ち負け)は「別」だということだけは何度でも確認されなければならない。
●社会的、経済的な次元においてもまた、「どうすれば競争に勝てるのか」と考えるのではなく、「どうすれば競争しなくても済むのか」と考えることこそがクリエイティブなことなのではないか。
●以下は、「文藝」に掲載された『私のいない高校』の書評の一部。全文載せないのは、改めて読み返してみて、あまりよい書評ではなかったなと感じたから。
●何度も行きつ戻りつして、何度も「すげえ」と声を漏らす……
世界の中に謎はない。しかし世界そのものが謎である。この感触が本作の経験の基調である。例えば次の二つの文。一見何のこともない文の並びが生む違和を感じ取られたい。
《果たして何組の何先生のクラスになるのか、新しいクラスメートには誰がいるのか、新学期のクラス替えがすぐ間近に迫っていた。今回はそこに加えて、外国人が二年普通科編入することを生徒達がどの程度把握しているのかもまた一つ気になるところだった。》
主語は省かれているが最初の文は明らかに生徒側の立場から書き出されており、だが次の文は学校側の立場で着地している。そして最初の文の最後《クラス替えが…。》と次の文の頭《今回はそこに…》はどちらにも当てはまるので、読んでいると、生徒側から立ち上がった文が、知らない間に学校側へとずれ込んでしまうかのようなのだ。二つの文を続けて読むと、起点と着地点が捻じれて、世界の地平そのものが揺らいでしまう。上げたのは右足だったはずなのに、左足が着地したというように、言葉の使用が人間をすり抜ける。