●わけがあって、今後一か月くらいは小説(読み)絶ちしようと思っているのだが、「群像」二月号に青木淳悟の新作が載っていて(「私のいない高校」)、気になって、読みたくて仕方がない(青木さんが女子高の話を書いているということはずいぶん前から聞いていて、いったいどんなことになるのかと楽しみに待っていたのだが、それが「これ」なのだった)。最初の二ページくらいをちらっと読んでみたのだが、いかにも青木淳悟という感じの人を食った文章で、というか、青木淳悟にしか書けないアクロバティックに無個性的な文章で、というか、書かれていることは全部紋切型というかあからさまな借り物なのに、読んでいると青木さんの顔しか浮かんでこないという、こんなこと青木淳悟以外に成し得ないと言える文が連なっていて、すげーと思いつつニヤニヤしてしまって、これを我慢するのは相当きつい。小説絶ちはこれを読んでから…、にしようかとも思うのだが、そうするとずるずると他のも読んでしまいそうだ。「文藝」にはすごい久々の大鋸一正の小説も載ってるし(とはいえ、こちらは書き出しを読んだかぎりではつまんなそうなのだが…)。
●昨日の日記で『涼宮ハルヒの消失』の感想を書いていて、ぼくが今でもまだハルヒに対して多少関心があるのは、そのディック的な匂いに対してなのだな、と思った。とはいえ、「エンドレス・エイト」はそれを多少なりとも突き抜けていたと思うけど。
『叫』黒沢清)をDVDで。やっていることの一つ一つはすごい。既に何度も観ているのだが、シーンがかわるたび、カットがかわるたびに驚かされる。何度観てもその度に(こんなこともやってたのか!と)驚きが更新される。一つ一つの場面に込められたものの密度は半端ではないと思う。しかし、では、全体として、作品としてすごいかと言えば、実そんなにはすごくは面白くないようにも感じられてしまう。黒沢的マニエリスムと言えるような過剰な細部(それがたんなる洗練という形ではなく、やっぱりちょっとずつどこか変だ、というところまで含めて非常に密度が高いのだが)が、で、それらがいったいどこへ向かおうとしているのか、という点において、黒沢清はけっこう長い行き詰まりのなかにいるように、ぼくには思われる。こんなにすごいのに(このタイミングでカメラをこっちに置くのか、とか、ここでこんな風に人物を配置するのか、とか、ここで音をこんな風にズラすのか、とか、いちいち憶えていられないくらい驚きがてんこ盛りで、とにかくすごいのだが)、何故、作品としてはいまひとつ面白いと感じられないのか、が、自分に感じ方に対しても不可解なのだが。昨年末に久々に『ニンゲン合格』を観て非常に強く感銘を受けただけになおさら、そのように感じられてしまう。
(『ニンゲン合格』には明らかに弛緩していると思われるシーン、例えば大杉漣がチェーンソーでミルクスタンドを破壊するところとか、があるが、最近の作品ではそのような隙はまったくと言ってもいいほどない気がする。『叫』など、ゴダール並みの密度と言ってもいいんじゃないだろうか。でも、多分そういうことではなくて…)
●近所