●お知らせ。東京新聞七日夕刊に、府中市美術館の利部志穂公開制作について書きました。
●『涼宮ハルヒの消失』をDVDで。バッケージに163分と書いてあって、きっと特典映像も込みでその時間なのだろう思ったら、本当に本編がきっちり163分あった。
今さらハルヒもないだろうという気もするのだが、「エンドレス・エイト」がかなり面白かったので、観てみた。普通に面白かった。特に前半。ただ、あまりにも「普通な形」に落とし込み過ぎている後半はやや退屈だったけど。
いまやぼくには、ハルヒは、口うるさくておせっかいな「いるよね、こういうおばちゃん」という感じのおばちゃんみたいにしか見えないのだが。
時間ネタっていうのは、やりすぎるとなんでもありになってしまう。もともと、ハルヒとキョンが出会ったのは、中学時代のハルヒがジョン・スミス(過去に戻ったキョン)に会ったことで北高に入学したからなのだが、しかしそもそも、ハルヒと出会わなかったら、キョンは過去のハルヒに会いにゆくことはなかったのだから、ここで原因と結果は実は結果と原因という風に逆転してループになってしまっている。つまり原因はどこにもない(説明されていない)。逆に言えば、この原因と結果のループを使えば、どんなシチュエーションも説明できてしまうし、物語上のどのような困難も解決できてしまう。物語の時系列の隙間に原因−結果のループを複数仕掛けてみれば、簡単に物語が複雑になっているようにみせることはできるが、実はそれは同一の操作の単調な繰り返しでしかない。本作の後半は、そのようなトラップにはまりかけているように思える。
本作の面白さの中心はそこにはなく、前半の、キョンがまったく違う世界に紛れ込んでしまった時の孤独ととまどいの感触のリアルさと、やっと見つけたハルヒに「ジョン・スミス」というキーワードが通じた瞬間の感動にある。キョンが本作ではじめて傍観者ではなく能動的に行為する者になったということの意味は、決して、改変前と改変後の二つの世界の二者択一を自らの意思によって行うということによってではなく(この葛藤の表現のなんと陳腐で幼稚で長ったらしいことか)、知らぬ間に未知のものとなってしまった世界を手さぐりで探索し、そのなかで(決定的に情報が不足した不利な状況のなかで)行為することを強いられる、という、その行為のなかにこそある。
そして、やっと見つけたハルヒに「ジョン・スミス」というキーワードが通じる。これは、原因−結果のループという時間的トリック−説明(言い訳)とは関係なく、キョンとハルヒの間に間違いなく「ジョン・スミス」という言葉に刻まれたある出来事(出会い)が生じたのだということを示す証拠だ。そしてその出来事によって刻まれたものは、別様に変質してしまった(そうでもありえた別の)世界においても有効であり、「ジョン・スミス」はハルヒのなかに眠っていた何かを起動させる。「ジョン・スミス」はハルヒにとって、夢と現実とを結び付ける可能性であり、意味が確定されないまま(であるからこそ別世界においても有効な)未来へ向かって開かれた痕跡−トラウマでもあろう(トラウマが必ずしもネガティブに作動するとは限らない)。つまり、別世界でのキョンとハルヒの再−出会いによって、キョンとハルヒとが出会ったという出来事が起こったという事実が(原因−説明としてではなく)示される。
ただ、世界改変以降の長門のキャラは、いくらなんでもやり過ぎだと思う。こういう趣味には、どうしてもついてゆけない。あと、全体として、事前に容易に予測できる分かり切ったことを示すのに、やたら延々とひっぱる、みのもんたのタメみたいな演出(特にキョンの葛藤とか)には、うんざりさせられた。
●近所