●今期のアニメはどれもイマイチ冴えていなくて(現時点で、今後の「大化け」が期待できるのは『放課後のプレアデス』くらいだが、このまま行くと尻つぼみになってしまう感じもする)、例えば『長門有希ちゃんの消失』の8話目はいわゆる温泉回なのだけど、「みんなで温泉に行きました(肌色成分多め)」という以外の何のひねりもアイデアもなくて、これはいくら何でもオリジナルの知名度とキャラに頼りすぎではないかと思ってしまう。
それで何となく、京アニの最初の「ハルヒ」の(時系列順での)4話分を観てみたのだけど、思ったのは、この作品は本当に、涼宮ハルヒの「憂鬱」なのだなあということだった。
この作品のリアリティの根底は、涼宮ハルヒという女の子の「憂鬱」であり「苛立ち」にあるということ。彼女は、キャラの属性としてではなく、本当に、自分の周囲の世界の退屈さや、周囲の人物の凡庸さに対して絶望しており、苛立っているように感じられる。彼女は、萌えキャラやツンデレである前に、リアルにギスギスした人である。彼女は、たんに攻撃的であるだけではなく、同時に冷たい人でもある。彼女は、世界の凡庸さについて攻撃的に糾弾しつづけるのだけど、この糾弾の裏には絶望と憂鬱がある。つまり、世界の外から世界を糾弾するのであって、世界の内側から糾弾する人(改革を叫ぶ熱い人)ではない。そしてこの「苛立つ(冷たい)女性」の表現において、平野綾の声と演技はとても大きな貢献をしているように思う。
(「世界の外側から世界を糾弾する冷たい美女」というのは、いわばファムファタルでありアンチゴネーであり、男性が魅了される女性の典型的なパターンの一つだと思うのだけど、それは男性側の欲望の話だ。)
おそらく、この作品に何かしら他の作品とは異なる(抵抗ということではなく、魅了されるという意味での)「ひっかかり」を感じる人は、まずは、共感としてであれ、ファムファタルとしてであれ、ハルヒのこの冷たい不機嫌さの感触に惹かれるのではないかと思った。
彼女は決して「世界(というより「世間」)の退屈さ」と妥協することなく、「面白いもの(いわば世界そのもの)」への探求、そのための様々な試みを、周囲を気にすることなく果敢に行う。そして、退屈さに妥協しないという態度によって孤独である。というか、退屈さとの妥協としてある世間(共同性・常識)に耐えられずに憂鬱であり、故にその外に立ち、それを糾弾する。だけど、そのような彼女を孤独から救う(いわば、世間の内部に引きずり込む)のは、本来彼女がもっとも軽蔑するはずの「退屈さとの妥協」の技術において特に優れた存在であるキョンなのだった。この部分がユニークなのではないか。
(キョンハルヒに、自分が本当に欲しいものは自分で作るしかないが、我々のような凡庸な人間にはそれを作り出す力がないから、既にあるものを使って適当に楽しむしかないと諭し、それを聞いたハルヒは、そうか、それを自分で――絶望的に退屈な世間の中に――つくればいいのかと気がつく。
サンタクロースははじめから信じていないが、戦隊ヒーローはいてほしかったと語り、しかしそんなものはいないのだという偽の諦観によって「退屈さ(世間)と妥協」をオペレートしているキョンの側からみれば、ハルヒの存在こそ、世間を越えた世界の存在の証明であり、救いである。)
ハルヒが世界の外に立っているということは、物語のレベルでも真である(彼女は世界の原因であり支配者であり、ほぼ神である)。そのようなハルヒが、世間の外から世間の内へ引きずりこまれるということは、同時に、ハルヒに対してメタレベルにいた観察者たち(宇宙人、未来人、超能力者)を、ハルヒと同じレベルに巻き込むことでもある。つまりここには、二つの意味での階層の破れが生じている。
涼宮ハルヒの憂鬱』はシリーズの第一作のみのタイトルだ。つまり、彼女の「憂鬱」は第一作でのみ重要でありリアルである。彼女の憂鬱や苛立ちは、キョンSOS団との絡みによって次第に治癒されてゆく。シリーズを通して、変化するのはハルヒだけでなく、キョンもまた、偽の諦観としての退屈さとの妥協のあり方を、少しずつ変化させてゆくし、長門有希でさえ、一万数千回も繰り返された夏休みを通じて変化する。だから、彼女たちはキャラであると同時にそれ以上に変化する「登場人物」であり、よって「ハルヒ」シリーズは、『サザエさん』や『ドラえもん』のように、延々と続くシリーズにはなり得なったのだろう。