●ふと思ったのだが、『ハーモニー』で生じる、意識をもたないはずのミァハにおける意識(感情)の獲得という出来事と、『涼宮ハルヒの消失』で生じる、感情をもたないはずの長門有希における感情の発生という出来事は似ている。本来ならば意識(感情)をもたない存在が、並外れて過剰な負荷を受けることによって、プログラムに生じた一種のゆがみ(エラー)として意識(感情)を生じさせる。そして、本来感情をもたないはずの存在が感情をもつことによって、彼女たちが「世界の根底からの改変」を望み、企てるようになるという点も同じだ。意識(感情)の発生(=ものごころがつく)という出来事は、それくらい残酷で理不尽で、世界そのものの改変によってしか釣り合いのとれない重たい出来事なのだ。
さらにそこには、人格(あるいは世界の基底面)の連続性/非連続性という、より踏み込んだ思考が込められている。意識、記憶、人格、あるいは世界そのものが、連続しているのか不連続なのかは、その意識や世界の内部にいる者には知ることができない。この点では『ハーモニー』より「消失」の方がぐっと深くまで踏み込んでいる。
世界の連続/不連続を観測によって証す観測者の観測基底の連続性を誰が保証するのか(世界の連続/不連続を、世界の外側から観測することで保証する外部観測者の存在を認めるのか)。「涼宮ハルヒ」の世界では、ハルヒこそが世界の根拠である絶対的存在であるはずなのに、そのような「ハルヒ世界」を、その世界の内部の存在であるはずの長門有希が基底から改変できるとしたら、その世界には神が二人いることになる。二人いるということはもはや神とはいえず、ハルヒは、長門の連続/不連続を観測する外部観測者足り得ず、長門も、ハルヒの連続/非連続を観測する外部観測者足り得ないことになる。いやだから、世界の非連続性を観測できるキョンこそが真の神なのか。
(ほかにも「エンドレスエイト」や『シュタインズゲート』、『ゼーガペイン』などで、世界の基底面の連続/不連続に対する原理的な不可知性という主題がみられ、この主題は、ゼロ年代以降のすぐれたフィクションにおける重要なテーマなのではないか。)