●アニメ版涼宮ハルヒの主だったところをまとめてダーッと観直してみた。第一シリーズから「涼宮ハルヒの憂鬱」六話と「サムデイインザレイン」、第二シリーズから「笹の葉ラプソディ」と「エンドレスエイト」八話、そして劇場版『涼宮ハルヒの消失』。テレビシリーズ十六話分+劇場版という十時間を越えるハルヒ尽くし。改めてまとめて観ると、それぞれの話がちゃんと関係しあっているのだということを感じたし、(キョンによる語りがうざいとはいえ)お話としてはとてもいい話だなあとも思った。物語上の時系列で並べると、「涼宮ハルヒの憂鬱」「笹の葉ラプソディ」「エンドレスエイト」「サムデイインザレイン」『涼宮ハルヒの消失』という順番になるのだろうか。最初に観た時はまるでピンとこなかった「サムデイインザレイン」も、「エンドレスエイト」の後、『…消失』の直前のことなのだと思うと、なかなか味わい深いものがある。ただ『…消失』はとてもいい話なのに、アニメ作品としてはダメ過ぎると思う。語りや演出が、説明的というのを通り越してくどくてイライラしてくる。
改めて観ると、「…憂鬱」は登場人物と世界との関係性において、思っていた以上に九十年代アニメの香りが強く残るものだった。ここで言う「九十年代アニメの香り」とは要するに榎戸洋司の香りのことなのだが。とはいえ、榎戸洋司においては登場人物(少年や少女)の成長という要素が必ずあり、父、母、兄、姉、年上の異性といった先行する世代との関係があらわれのだが、ハルヒにあるのは完全な水平的世界(朝比奈さんは一つ年上だけど)であり、世界に波乱があらわれ、それが収束する(もとに戻る)という話で、世界が(人物が)変質することはない。いや、しかし、世界が変質することはないと言い切れないところが「…憂鬱」の面白いところで、「…憂鬱」においては、自己中心的なハルヒというキャラクターが、ともかくキョンという他人-異性を受け入れるという出来事-成長が起こる。つまりその点でも、九十年代アニメ的なのだが(でもそれは、一度起こってしまえば、その後はずっと変わらない世界が、ドラえもんのび太のような変わらない関係が、続くしかなくなる)。
だが、「…憂鬱」において画期的なのは、ハルヒに対する(ということは世界に対する)宇宙人、未来人、超能力者という三つの異なる解釈が同時に共存し、しかもそれらが互いに干渉し協力し合いさえする点だろう。「エヴァ」や「ウテナ」や「トップ2」の(榎戸的)世界には謎(という深さ)はあっても、異なる世界解釈の共存はない(一つの世界のなかでの複数の立場の覇権抗争はあるが、それは基本として排他的である)。この、異なる世界解釈の共存こそが、物語に多元的世界やループ構造の導入を可能にする(だから新「エヴァ」がループ構造を採用するとしたら、それは元「エヴァ」とはまったく別物になるということだ)。
しかしこの三つの世界解釈は同等ではない。宇宙人によるものがもっとも強くて包括的であり、次いで未来人、超能力者とつづく。実際、「…憂鬱」で描かれる、閉鎖空間と「この世界」との反転の危機が(とりあえず)解決してしまえば、超能力者である古泉的世界解釈はほぼ意味を失う。その一方で、宇宙人長門の力はハルヒと拮抗する程に強くなり、作中での重要度も高くなってゆく。「エンドレスエイト」では長門の存在感がハルヒを上回るものとなり、『…消失』では主役と言っていいだろう(『…消失』は長門版閉鎖空間の話とも言えて、しかもそれはハルヒ版よりもはるかに強力なものだ)。「サムデイ…」の二枚のカーディガンは、作品世界の中心が二重化していることを示す。つまりそれは、ハルヒのキャラやハルヒ-キョンの関係は既に第一作である「…憂鬱」で出来上がってしまっていて動く余地がないが、長門というキャラおよび長門-キョン関係には変化や成長の余地が残されている、ということでもある。
ハルヒのキャラは動きようがないから、「笹の葉…」ではハルヒの過去が召喚されたり(ハルヒキョンの出会いの二重化)、『…消失』ではハルヒの再覚醒(キョンとの別世界での再-出会い)を描くために世界の改変が要請される。つまり、ハルヒ的作品世界では、ハルヒに起こる出来事はキョンとの出会い「だけ」なのだ。しかしこのことがまた、その唯一の出来事を反復させるために、多元的世界の出現を必然化する。
ハルヒ的世界で最も重要なのはおそらく多元的な世界の共立であり、その増殖(世界の分化)と消失(世界の収束)、および異世界間の交通の可能性/不可能性というところにあると思う(これは偶然にも昨日の日記に書いたことと重なる)。世界の三つの解釈がやがて宇宙人的解釈の優勢へと収束してゆくように、(ハルヒによって)一万五千回繰り返された夏休みは最後の一回に収束され、(長門によって)改変された世界は元の世界へと回復される。つまり、それ以外の世界は「事後的に」世界の外へと破棄され、なかったことにされる。生き残った唯一の世界が過去にわたって遡行的に「この世界」の正当性を決定してしまう。しかし、結果として唯一の世界として生き残った世界のなかに、事後的になかったことにされた世界が、なにがしかの共振のようなものとして残されている余地はあるのか。消えてしまったキョンハルヒと生き残ったキョンハルヒとの間に、なにがしかの関係や通路はあり得るのか。「この世界」から消えてしまったキョンハルヒは一体「どこ」にいるのか(つまり「どこか」に存在させたい、ということが、「消えてしまう世界」を「物語る」ことで顕在化させる)。ハルヒ的作品世界を駆動させているのは、そのような関心なのではないか。おそらく、唯一の世界とされている内部にも、多数の世界の可能性の抗争があるということを作品世界のなかで(タイムパラドックスという形で)最も強く匂わせているのが、時間を行き来する未来人である朝比奈であろう。
そのようなところが、成長という一直線の時間のなかにある榎戸的な世界ともっとも異なる点だと思った。とはいえ、「ウテナ」のように、その物語が過去に無限回反復されたものであることが濃厚に匂わされているものもあるのだが。だが「ウテナ」においても、分岐する物語や無限回の反復は、それぞれ別の人物によって担われ、個々の人物においては時間は不可逆で、前に向かって、未来に向かって「成長する(進んでゆく)」という流れの方向性が強くあるのだが(時間が不可逆だからこそトラウマが決定的なものとして強く刻まれるのだが)、「ハルヒ」においてはそれが希薄で、その希薄さのなかに多元的世界の並立が可能になる余地が生まれる。
それでも、例えば「ドラえもん」や「うる星やつら」のように完全に時間が停滞するというわけでもなく(時間が完全に停滞すると、いわゆる日常系のようなものになってしまう)、「未来」(という、時間を強力に前方へと推し進める力)はない(未来人が現在に居るということ自体が、時間を未来へ推し進める力を弱体化させる)けど、時間はゆるやかに積み重なるし、進んでしまう(例えば長門のストレスの増大という形で)。ハルヒの作品世界に流れる時間の速度と、ハルヒの観客や読者に流れる時間は決して同期しないが、それでも、作中世界にも時間は流れてはいる。たぶん、そこらへんの微妙な匙加減が面白いのだと思った。