●深夜アニメ。「長門有希ちゃんの消失」の三話目。一、二話はかなりきつかった。
http://d.hatena.ne.jp/furuyatoshihiro/20150407
長門キョンも、まったく長門キョンに見えなくて、ちらっと出てきたハルヒは、さらにそれ以上にハルヒに見えないビジュアルで、これはないのではないかと思っていた。しかし、ビジュアル的にはまったくハルヒに見えなかったハルヒ平野綾の声が被されたとたん、まぎれもなくハルヒになって、おおーっと思い、平野綾はやはりすごいのだと思った。そして、ハルヒハルヒになることによって、まわりにいる長門キョンもまた、少しずつ長門キョンに見えるようになってきた。ハルヒの登場と活躍によって作品も引き締まってきた感じ。それはつまり、「ハルヒ」シリーズにおけるハルヒというキャラの重要性の証明であり、ハルヒというキャラの成立において、平野綾の声と演技の貢献の大きさの証明であるように思った。
(それは、長門キョンは、ハルヒとの関係によって長門キョンであるという側面が強いということで、特にキョンは、ハルヒに対する「受け」によって、はじめてキョンというキャラになれるのだなあと思った。このことは、キャラが作品という環境=地から離脱するのは、それほどは簡単ではないことを示しているようにも思われる。)
●坂中亮太さんのブログで紹介されていた下のリンクのブログの、この人がすごい。「変幻自在の見事な人力ハードミニマルビートを繰り出すストリートドラマー Dario Rossi」
http://sothis.blog.so-net.ne.jp/2015-04-01
●リズムは構造であると同時にクオリアであるようなものだ、と言えるのではないか。クオリアとは、再現性がなく(同一性の確認のしようがなく)、かつ、伝達できない質だけど、構造とは、再現可能性のことであり、再現性の記述可能性のことであろう。
あるいは、キャラというものが、あるクオリアの再現性そのものであり、しかも、間作品的、間メディア的な再現性であるとすれば、キャラとリズムとは似ている。構造≒クオリアという風な結びつきにある一定の恒常性が生まれる時、それはキャラ≒リズムとなる。