●『長門有希ちゃんの消失』。十一話になってようやく、しかも唐突に面白くなったので動揺した。この弛緩した作品を惰性でここまで観つづけてきてよかった。
考えてみれば、『涼宮ハルヒの消失』のラストでは、改変世界長門有希(の人格)は消失したのだった。その存在を否定されたとも言える。改変世界ハルヒや小泉も消えたとも言えるが、彼らの人格は改変世界と通常世界とで違いはなく、改変世界は「その別の可能性」であったに過ぎない。改変世界では長門有希だけが、前にそう呼ばれていた人物とは別の、新しく生まれた人格であった。だから、世界が元に戻れば消える。死ぬのではなく、はじめから居なかったことになる。
長門有希ちゃんの…」という作品は、そこで存在を否定された改変版長門有希の存在が許される世界の話だった。長門が幽霊なのではなく、世界全体が幽霊であるような世界だからこそ、はじめから居なかったはずの人格が存在できる。しかしその作品世界内でもまた、改変世界長門有希はいなくなって、原作で通常モードの長門有希(宇宙人ではないとしても)に、「記憶」のみを残して取って代わられてしまう。
ここで重要なのは、一見、世界のなかから消えたものは何一つない(長門という存在も、長門の今までの記憶も消えていない)にもかかわらず、「長門有希ちゃんの…」という作品世界にいた長門有希は消えてしまったということだ。それは逆に言えば、今までの長門の記憶をそっくりそそまま持った、新しい人が生まれたということでもある。一人が消え、一人が生まれたのに、そのことを(長門自身が事情を喋らなければ)外側から観測・記述することはできない。世界はまったく変わっていない。この作品がまさか、終盤になってこんなにすごい技を繰り出してくるとは予想もしていなかった。
(朝倉はなぜそのことに気づけたのか!)
今までの記憶はあるが、それは「まるで他人の日記を読んでいるよう」で、自分のものとは思えないと「(この世界では)新しい長門」が言う(二重人格のようなものとは違う)。周囲の人々は、長門が前の状態に戻ることを願う。普通に考えれば、それはたんに長門離人症的な症状が治癒するということにすぎない。しかし「新しいわたし」が既に生じてしまっている以上、それはたんなる治癒ではなく、「新しい長門」にとってこの世界での存在が否定されることだ。キョンや朝倉もそのことに気づく。以前の長門に戻って来て欲しいが、今の長門を否定することもできない。
(このようなキョンや朝倉の戸惑いは、この「長門有希ちゃんの消失」という作品を観始めた時の観客の「これは長門ではない」という戸惑いとある程度重なるのではないか。)
涼宮ハルヒの消失』でキョンに課せられた選択は、改変後の世界をとるのか、改変前の世界をとるのかというものだった。しかし、改変前の世界を選択するということは同時に、既に生まれてしまっている改変後の長門を否定する(消す)ことになってしまう(可能性はあるが選択しない、ということと、既に存在してしまったものを消す、ということは、どの程度違うのだろうか)。この時、キョンはその事実を自覚していない。しかし「長門有希ちゃんの…」の作品世界というパラレルワールドで、キョンはその問題をいわば逆から突きつけられることになった。前の長門が戻ってくるためには、「この長門」を消さなければならない。「この長門」を認めるということは、前の長門の消失を容認するということだ。
これまで、弛緩したゆるゆるの展開をみせてきたこの作品が、最後になってこんなにシビアな問題を投げかけてくるとは思わなかった。おそらく、あと一回か二回で終わると思うのだけど、いったいどのような展開をみせるのだろうか。
(あり得る解決の一つに、世界を分裂させるという手がある。「長門有希ちゃんの…」という作品が、「涼宮ハルヒの消失」で否定された世界を存続させるための世界の創造だとすれば、今度はさらにそれを分裂させ、以前の長門が復活する「長門有希ちゃんの…1」と、新しい長門が存続する「長門有希ちゃんの…2」がある、という風にする、と。しかしそれは、人を納得させ得る解決なのだろうか。我々は、「世界は一つである」という法に、どの程度の強さで拘束されているのか。)