●お知らせ。「國文学」6月臨時増刊号(特集・小説はどこに行くのか2009)に、「部屋と情報と私」というタイトルで、青木淳悟「このあいだ東京でね」論を書いています。約35枚。ぼくはこの文章のなかで、小説中に登場する人物で、忙しい仕事をようやく終え、金曜の《深夜にタクシーで帰宅する》《「第一線で働く」勤め人》について触れているのですが、ぼくにはどうしても、この《「第一線で働く」勤め人》と、磯崎憲一郎の「終の住処」の主人公である《彼》とが重なってみえてしまいます。この《「第一線で働く」勤め人》は、小説の真ん中あたりで、小説のなかを横切るように、唐突に現れてすぐ去ってゆくのですが、ぼくには、青木さんの小説のなかに、(まったく作風の異なる)磯崎さんの登場人物が一瞬横切ってゆくかのように感じられて、「ああ、世界は繋がっているんだ」と感動してしまいます。
●重要なのは、これが、青木さんから磯崎さんへの「意図的な目配せ」では決してなく、そして、内容的に呼応しているというのとも少し違うということです。ある人物-出来事が自らの位置を離れ、異質な別の領域をふっと横切ってゆく。しかも、「終の住処」は「このあいだ東京でね」よりも後に書かれているので、時間を逆流してまで、「そこ」を横切ってゆく。逆に言えば、「このあいだ東京でね」には、それが書かれている段階では未だ存在していなかった「終の住処」の一部が既に内包されていた、と。この世界では誰かの意図とは関係なくこういうことが起こる、つまり、作品は、「世界」という「底」を通じて、まったく存立条件の違う他の作品と繋がっている、という事です。そして、その「世界-現実」は、作品の外に(作品より前に)あるというより、作品と別の作品との予想外の交錯という出来事を通じて、その効果によって、はじめてみえてくる、リアルに感じられる、ようなものだ、ということです。繰り返しますが、これは、青木さんが磯崎さんの仕事を意識している(実際に、意識しているのか、していないのかは知りませんが)、ということとは、別の次元の出来事です。
●「そんな出来事はお前の頭のなかだけで起こってることじゃねえの」ということでもあるのですが、しかし、ぼくの頭のなかも確実に「世界」の一部なのだから、ぼくの頭のなかで起こったことは、この世界で起こったことであると言ってもよいと思います。
●「國文学」に掲載されている文章には、こういうことが書かれているわけではありません。