●一年で5月が一番好きなのだが、今年は5月らしい日が一日もなかったように思う。少なくともぼくの住んでいる周囲では。ずっと雨降りの日がつづき、その後も、中途半端に空に薄雲がかかる日がつづいた(夕日を見ようとしたのに、ずっと見られなかった)。ようやく晴れたかと思うと妙に蒸し暑くて、荒れた感じの強い風が吹き、そしてまた、この雨だ。すかっと晴れて、気温も高いのだが、湿気がなくて、さらさらした心地良い空気が肌にあたるという、5月らしい陽気を、今年は一日も経験していない。ただ外を歩いているだけで、「あらゆることがオッケー」と思ってしまうような、そんな奇蹟のような日が、毎年5月には数日はあるものなのだが、そんな日をずっと待ち続けたままで5月が終ってしまいそうだ。このままゆくと、今年は5月のなかった一年ということになってしまう。今年はおあずけ、一年待て、ってことなのか。
●昨日、散歩の途中で立ち寄った古本屋で、『本当のような話』(吉田健一)が250円で売っていたので、買って帰った。以前読んだのは講談社文芸文庫版で、今も部屋の何処かには埋もれているはずだが、これは集英社文庫版。この小説の書き出しは何度読んでも面白い。特に《この話そのものが何の表向きの根拠もなしにただ頭に浮かんだものなので従ってこれは或は本当のことを書いているのかも知れない》というところ。「何の表向きの根拠のなしにただ頭に浮かんだもの」なのだから「本当のこと」かもしれない、という繋がりは、考えてみればかなり変であろう。これは、昨日の日記に書いた「ぼくの頭のなかも確実に「世界」の一部なのだから、ぼくの頭のなかで起こったことは、この世界で起こったこと」だ、という感じに近い気がする。
以前、「ユリイカ」の吉田健一特集(2006年10月号)に、「虚構の人物と「作者」」というタイトルで、吉田健一「瓦礫の中」と松浦寿輝「あやめ」の、微妙だが決定的な違いについて書いたことがあって、この文章は、今、文芸誌などに書かせてもらっている小説の批評の原点となったようなもので、自分としてはとても愛着があるものなので、ここにその一部を引用したい。ここで言いたかったのは、吉田健一の小説では「部分」は、作品の他の部分との関係で成り立ったり(他の部分へと送り届けられたり)、伏線として回収されたり、作品全体の意味をメタレベルで(比喩的に)語っていたりすることで成り立つのではなく、その部分、部分でその都度、その場面が立ち上がるという出来事の感触によって成り立っていて、その感触こそが読まれるべきだ、ということ。


《まり子は食べながら昔はどこそこのパンが旨かったなどとは考えなかった。これは自分が作ったパンの手前ではなくて他にパンがなければ仕方ないからであり、闇市ではアメリカ軍用の白いパンも買えたが、これは甘くて食べられたものではなかった。つまり、ないということで、そうなるとまり子の関心は自分が作るパンの出来栄えに向けられ、確かにそれがそう悪くはないことは寅三が食べる量でも解った。》(以上、「瓦礫の中」より)


通常に小説を読む時、引用部分の「闇市ではアメリカ軍用の白いパンも買えたが」という箇所は、小説内の世界の説明的記述として読むし、「これは甘くて食べられたものではなかった」は、登場人物であるまり子か寅三の意見(あるいはもっと一般的な評判)であるように読むと思われるのだが、『瓦礫の中』を冒頭からずっと読んでここにたどり着いた者には、「闇市ではアメリカ軍用の白いパンも買えたが、これは甘くて食べられたものではなかった」という箇所全体が、ほとんどそのまま、作者の思い出であり、意見であるかのように読めてしまう。そして何より重要なのは、この部分の記憶が、まり子がパンを食べるシーンを書く事によって、これを書きつつあった現在に、作者=話者の実在する身体に到来したかのように読めるということだと思う。書かれている事柄は過去のことであり、過去を舞台に虚構の人物が動いているのだが、その人物を動かしているのは書きつつある現在にいる作者=話者であり、しかも、まるで書きながらの思いつきによって人物が動かされているように書かれている時、ここで記述される過去(記憶)は、今、書かれることで思い出されているという現在性を強く意識させる。そしてここでの現在とは、この文の連なりを書いている、実在する作者の身体に訪れている「現在」であるという意味で、作者の身体が強く浮上してくるように思える。(略)


次に長めの引用をするのは、小説の中盤、既に屋敷を建ててそこに住んでいる伝右衛門と、いまだ防空壕で生活しつつ、そろそろ家が欲しいと思いはじめている寅三が、伝右衛門の屋敷で、二人で昼間からウイスキーを飲み、酔っている場面で、寅三と伝右衛門それぞれが考えていることが書かれている。まず寅三、次に伝右衛門。


《考えて見れば、寅三が家が欲しいと思うのもただそこにいて家などということに頭を使わずにいたいからだった。勿論今いる防空壕も家だったが、そういう所では気を付けないと電燈で額を打ったり一跨ぎで家の端から端まで行ったりして自分がどこにいるかいやでも解らされてその注意の無駄がひどかった。それならばこうして伝右衛門さんと飲んでいるのは家にいることで防空壕に戻ってちゃぶ台に肘を付き、まり子の顔をどこか他所でも見たことがあるような気がしながらまり子と話しているのも家にいるのだった。そうすると寅三が家が欲しいというのはそうして自分がいる所に自分がいるのだという感じを長続きさせるのを望んでのことで、もし便所に入って水洗の取っ手を押して水が流れ出せばこれはそれ以上にその問題に就て考える必要はないということであり、寝部屋があってそこで朝目を覚ますのは早く起きないとまり子の邪魔になる心配がないことだった。それだけのことで寅三はそれだからこそ家が欲しいので、今は併し家にいた。》


《伝右衛門さんは寅三と飲んでいるのが誰となのか解らない状態になっていた。その部屋に日光が半分ばかり差し込んでいて陰を作り、飾り棚の置きものも淡い陰を落としていた。そうすると伝右衛門さんはその部屋が日光で満ちている所が想像出来て、もうその部屋にいないことになっているのでもよかった。或は自分がいる空間は思うままにどういう場所にもなり、そこは木の葉洩れに射して来る光を水が反射する河でもあり、音楽が続き過ぎて派手な沈黙に似て来た舞踏場の隅でも、いつ終わるのか見当も付かない相談が行われているどこかの会議室でも、儀仗兵が不動の姿勢で所どころに立っているので却って人間らしい感じがする宮殿の階段でも、或は誰といたのかはもう思い出せない薄暗い茶室でもあった。併し確かなことはそこがどこになってもそこを自分が見ていて自分の廻りにそこがあることで、そのどれもが曾て自分がここにいると思った場所だった。》


同じ場所で一緒に酒を飲みながら、二人は正反対でもあり、しかし重なり合ってもいるようなことを、それぞれ感じ、考えている。この場面でも、このように感じ、考えているのは登場人物であると同時に作者であり、小説としての形式上の都合で、つまり、二人の人物の立場やキャラクターの違いを対照的に示すために、登場人物にこのように考えさせているのではないように読める。作者は、伝右衛門の立派な屋敷のなかの一部屋を設定し、二人の虚構の人物にそこで酒を飲ませることによって(そのよう語ることを通じて)、まさにここで書かれているようなことを感じ、考えている、もしくは、かつてそのように感じ、考えたことを、今、この場面を書きつつ、生々しく思い出している、ように読めるのだ。虚構の設定や登場人物は、作者が、そのような感触をよりよく思い出すための媒介としてのみ機能しているように思われる。『瓦礫の中』の語りは、虚構の人物を動かし、虚構の人物に語らせ、考えさせながら、それを通して(そのような段取りを踏むことで)「吉田健一」という個人の記憶と身体に働きかけ、それを刺激し、虚構と記憶とを通低させ、虚構のなかで記憶の生々しい声を響かせようとしているかのようだ。それは、ある感じ方、考え方を示すために(表現するために)、このような場面、このような人物、このような会話が設定された、ということとは微妙に、だが決定的に異なるように思う。そしてここで、寅三と伝右衛門とが、正反対とも重なり合うとも言える事柄を感じているのが、連続して並べて記述されていることも重要だろう。読者は、この二つの「感じ」をつづけて読むことで、バラバラに読むのとは異なるある「ひとつの感触」を触知する。この二つの感じ方が、何の説明もなしに併置されるのを可能にするために、二人の虚構の人物が必要だったのだと感じられる。そしてこの二つの感じ方が併置されることによって一層、読者は(既に今、ここにはいない)吉田健一という身体の感触を、より生々しく(それを読んでいる現在において)招き寄せるのだ。(略)


以下、『あやめ』の結びの部分を引用する。


《いずれにせよ本当の現実、混じりっ気なしの現実、そこらに転がっている石くれのように硬い手応えのある現実などどこにもないのだと木原は思った。そもそもその転がっている石くれ自体が単に化け物の見ているはかない夢まぼろしでしかないのかもしれないのだ。だから木原は砂利まみれの土が剥き出しになった更地のまま放っておかれている生家の跡地に横たわっているのかもしれず秋葉原近くの車道と舗道のはざまで血がじくじくとコートに染みこんでゆくのをうなじから背筋にかけて気持悪く感じながら横たわっているのかもしれなかった。あるいはただ単にひとけのなくなった深夜の酒場にこそ泥よろしく忍びこみ盗み酒でいい気持ちになっているだけなのかもしれなかった。それともいっそ木原はまだ子供のままでいて自分の小さな部屋にひっそりと閉じ籠り布団を頭からかぶって毒々しい敵意を投げかけ合う両親の罵声が耳に入らないふりをしているのかもしれなかった。そのどれでもいいしそのすべてがそうなのだと木原は思ったときそれは木原にとって紛れもない現実になるのであり、もし複数の様々なことをそれらはみなそうだと同時に思うのならその思った数だけの紛れもない複数の現実があるわけだった。それは結局すべてを肯定することにほかならずいつの間にか木原はあまりの幸福感に子どものように泣きじゃくりそうになっていた。》


ここで書かれていることの「内容」だけをみるならば(あるいは、この部分だけを取り出してみるならば)、吉田健一の書く伝右衛門の考えと、松浦寿輝の書く木原の考えは、ほとんど同じものだと言えるだろう。しかし、ほぼ同じような内容を含む『瓦礫の中』と『あやめ』とでは、その小説の語りから感じられる感触がまるで異なるのだ。
小説全体における引用部分の位置づけをみてみる。『瓦礫の中』の伝右衛門の考えは、小説の中盤に寅三と飲んでいる時にふと頭をよぎる事柄に過ぎないが、『あやめ』においてこの部分は小説の結びであり、死後も幽霊となってさまよう主人公の意識が、いよいよ途切れてしまう直前に行き着く果ての「思い」であり、あからさまに小説の「結論」であり、クライマックスである。結論と呼んでもオチと言ってもよいのだが、それはフィクションの外枠であり、フィクションの終わりを告げる明確な仕切りであり、つまり、『あやめ』の世界は内と外とに明確に枠付けられている。『瓦礫の中』の伝右衛門の頭をよぎる数々の情景(河や舞踏会や会議室など)は、それが小説のなかで説明されたり伏線として回収されたりすることはなく、ただぶっきらぼうに投げ出されているのに対し(ぶっきらぼうだからこそ、この情景が小説の内部からではなく作者の記憶から出たものであることの生々しさを、つまり吉田健一の身体を感じる)、『あやめ』の木原の去来する情景(生家の跡地や秋葉原の車道や深夜の酒場)は、この小説を形作る数々のエピソードの舞台となった場所であり、つまり伏線が回収されるように小説内の出来事の情景がきれいに反復されている。ここでの木原の言葉は、このような「考え」として突出するのではなく。小説作品内部の他の部分へ送り届けられ、その内部で意味が完結する。
松浦寿輝の小説でも、吉田健一同様に、作中で高踏的な会話が交わされる。『あやめ』でも、木原とバーテンが、あやめは死の象徴だとか、アイリスはあやめだけでなく虹彩という意味もある、などの会話を交わす。しかしこの会話もまた、吉田健一の会話のようにただ無為に語られるのではなく(それ自体として提出されるのではなく)、作品内の他の部分と響き合い、送り届けられ、あるいは作品全体を説明する機能をもち、つまり、作品内部でその意味は完結する。