●お知らせ。水声社から出ている『小島信夫長篇集成(8)寓話』の月報(本に挟んであるリーフレット)に、「誰が『寓話』を語るのか」という文章を書いています。
●小島信夫のことを「訳が分からなくてすごい」とみんな言い過ぎると思っていて、でも、『寓話』は普通に読めるし、普通に無茶苦茶おもしろいのだということを強調したい。確かに、出だしは訳が分からない。でも、そこで挫折しないでそれを突き抜ければ、とんでもなくすごい世界が展開されている。「訳が分からない」のではなく「とんでもない」のだ。
月報にも書いたのだけど、『寓話』では、小説が進むなかで《登場人物のほとんどすべてが(自分がその内に属している)『寓話』という小説の読者である》というすごい状況が生まれてしまう。多くの登場人物が、自分が登場している連載中の小説(『寓話』)を読んでいて、それに対するリアクションを作者に手紙なり電話なりで伝え、それが次の回の小説になるという、インタラクティブな状態が成立してしまうのだ(筒井康隆の『朝のガスパール』よりも早いし、より根底的だ)。当然、登場人物たちは、ほかの登場人物もまた連載中の『寓話』を読んでいると知っているから、それを意識して作者に働きかけることになる(だから、本当のことを言っているとは限らないのだ)。小説そのものが、複数の登場人物たちによる情報戦、諜報戦の場になっている。そして、これらの出来事の、どこまでが現実で、どこから小島信夫によってつくられたものなのかもよくわからない(実在する人物と虚構の人物に分け隔てがない)。いわゆるメタフィクションには、すべての仕掛けを仕掛けている特権的作者がいるのだけど、この小説は、作者も小説の仕掛けの一部でしかない。『寓話』という小説は、原典を示すことのできない伝聞につぐ伝聞の連鎖によって、構造がどんどんぐちゃぐちゃになってゆく過程を読むような小説だとも言える。
●『寓話』に出てくる浜仲という人物は、過去の小島信夫の二つの小説の登場人物のモデルということになっている。一つは「燕京大学部隊」で、もう一つは『墓碑銘』だ。で、この二つの小説は内容が食い違っている。前者では、浜仲は戦争中ずっと北京にいて暗号解読の仕事をしている。つまり前線には出ていないし、そんなに酷い目にあうわけでもない。しかし後者では徹底して酷い目にあい、レイテ島にまで行かされる。なので、このわたし(浜仲)は、どちらのわたしなのだ、みたいな問いが出てくる。
これくらいの前提知識があれば「燕京大学部隊」や『墓碑銘』を読んでいなくても『寓話』を十分に読めるはず。まあ、この「二つの浜仲の矛盾」というような問題は、小説が進んでゆくうちにどうでもよくなってしまうのだし。
●あと、「note」に、「秋幸は(ほとんど)存在しない--「岬」(中上健次)について(6)」を公開しています。
https://note.mu/furuyatoshihiro