08/01/13

●引用、メモ。『バナナブレッドのプディング』(大島弓子)の衣良と、それ以前の作品の少女たち、男色家たちとの違いについて。愛から「真実への要求」を抜き取ること(擬装)について。《人が知るかぎりで最後の種類の愛情》としての「作品」という形式について。この部分には、何度でも繰り返し立ち返る必要がある。「嘘の力と力の嘘---大島弓子と、そのいくつかの政治学」(樫村晴香)から。
《衣良に至るそれまでの世界では、母を求めるようにして信頼のやすらぎを男性に求める、素朴な波動の少女たちが一方におり、しかしその要求は現実に何者かに出会うやいなや、その対象の不完全さを明かしてしまい、したがってごく普通には、欲望は不完全なものをめぐりゆきて、そのそれぞれの不完全さにおける完全なものとの異なる仕方の差異を集め、ひとつの象徴の世界を作り上げ、それを不完全なものの父となして、たがいに偽りを分かちあうが、この素朴な少女の対極にいる、力強い女性たちや男色の者たちは、その偽りを分かつには、理想や価値や未来の名の後ろにある不完全なもののすべての形と真実を、すでに多く知りすぎてしまい、それゆえ愛を再び生きるために、空白への跳躍と、他人の無知と欲望へみずからを賭けることになる。いずれにせよ彼女たちにおける愛は、母を求めるように答を求める類の愛であり、その答の充満が、逆に愛そのものを困難にし、したがってそれがさらに、信ずることの倖いへの要求と、その反転の哄笑の繁茂を増大させる帰結を生む。
衣良がひそやかに進む道は、その真実と答はある意味でもはや愛から手を引き、それ自身で<庭の薔薇の花のように>語りだし、そのため逆に愛は、それとなく待ちつづける日々のなかで、ときに聞こえる声のように、偽らずかつ強がらぬ姿で、たがいに出会う世界である。つまり愛が真理の肥大を生み、それに苦しめられる世界から、むしろその充溢があまりに大前提に化したゆえに、反対に愛はそこから流出しだす、より新しい世界への移動である。衣良に至る少女たちが、幼年時代そのままの愛のすべてを守るべく、過去と未来にはさまれて、常に現在が滑り落ちてしまう世界にいたならば、衣良はその同じ少女でありながら、過去と未来を現在にはさみこむ、新しい制度と共同体を、はじめて発案する者となる。》
《じっさい、彼女の考案した<世間に後ろめたさを感じている男色家の男性の、カムフラージュとしての偽装の結婚>という選択で、真に重要なのは、<世間に>なのか<後ろめたさを感じている>なのか<男色家>なのか、あるいは<男性>、<カムフラージュとしての偽装>、<結婚>のどれなのか? それはきわめて緊密に結びつきつつ、じつはすべてが同等に重要なのであって、その緻密さは、恐ろしくも人を驚かせずにはいられない。<世間に>後ろめたさを感じているゆえに、その男性の愛はみずからの不可能を制度に委託する、いわゆる普通の主体の愚かしさをすでにまぬがれ、しかし<後ろめたさを感じている>男色家であることで、享楽の集積者として他人の欲望を支配せず、だが<男色家>ゆえに、知の限界にはすでに至り、しかもやはり<男性>として、欲望の主体たることの苦痛をひきうけ、衣良の性愛の可能的対象者として彼女を待ち、そして何よりも、すでに<偽装>であることで、相手に答と対象を求める充溢への再度の性急さは棄却され、しかし<結婚>という、隠れながらも待ちつづける意志によって、たがいを察し合おうと表明する。ここでの偽装とは、性急さと、それゆえに愛を過去に従属させてしまう信ずることの激しさへの、中止の手段なのであって、みずからの偽装を他人の快楽の目録とすることで真実を支配する、男色家的=人喰い鬼的偽装とは正反対のものである。》
《彼女のその闘いと、より深い愛の希求が、どのように帰結したかはこの作品では明らかでない。<わたしには自信がある/わたしは誰にだってすんなりとけこめるのよ>という衣良が、野の草々や庭の薔薇と語るように、人々と語りあえることになったかどうかは、難しいところだろう。というのもその彼女の振舞いは、庭の薔薇のようでありながらけっして庭の薔薇そのものではなく、むしろ強い震えの豊かな言葉が、みずからと、さらにやがて来る他者をそこで待ちつづけ、そのことが暗黙の了解として多くの人々に、<それとなく>すでに知られていることがそこでは前提となるからである。そして少女まんがにおいては、男性には過酷なほどの英知が期待されつつ、同時に彼らは――現実がそうであるように――存在論的に(?)愚かなのが常なので、聞かれることを得なかった彼女の声は、まったくの草々と薔薇の声となって、現実には山奥の山荘で療養する発狂した『ダリアの帯』の黄菜(きいな)の発する、<うふふふふ☆うふふふ☆やだあ☆それはへんよ☆ふふふふふ>という、緩慢にたゆらぐ気流のような音となる。だがここで、人は衣良の立てた戦略の、もう一方の帰結を知らねばならない。衣良の歩む、それ自身を知りながら、いつか聞かれることを互いに待ちつづける道ゆきは、実はその最も近いものは、作品といわれるそれの振舞いである。作品は、耳をやがてそばだてられる情愛豊かな自然であり、反対に聞かれることの少なさは、作品を自然に返してしまう。衣良が求めた、人が知るかぎりで最後の種類の愛情とは、作品に向けて贈られるようなそれであり、あるいは衣良の慎しさとは、作品がもつ慎しさに似通っている。》