08/01/14

●今出ている「文藝」春号に、『肝心の子供』の作者の磯崎憲一郎保坂和志の短い対談が載っていて、立ち読みしたら面白かったので、図書館でコピーしてきた(ごめんなさい、貧乏なので)。
『肝心の子供』を読んだ時、まず思ったのは、この、現実からズレた世界がいきなり中空にあらわれたかのような小説は、どのような「とっかかり」によって書き始められたのだろうか、ということで、つまりその点の「掴み難さ」だった。この点について磯崎氏は、最初にあったのは、ブッダの子供にラーフラ(束縛・差し障り)という名前をつけたのがブッダではなくその父で、しかもその名前をつけたことに大喜びしたという事実を知った時の、「その変な感じが最初にポンとあったんですね」と述べている。(つまりそれは、書き出しの文そのままということだ。)
ぼくは小説家ではないけど作家(画家)の端くれではあるので、作品がはじまる場所にある、「ひっかかり」のようなものが凄く気になる。その作品が動き出すときに最初にある、着想というほどしっかりしたものではなく、ある違和感のようなもの。それは決して作品のテーマなどではないし、謎でもなく、まさにただの「とっかかり」なのだけど、この「とっかかり」に力がなければ、作品は遠くまで転がっていってはくれない。このとっかかりに潜在的な力がありさえすれば、あとは、そこから自ずと出て来るもの、展開されるものの邪魔をなるだけしないように転がしてゆくことが、おそらく作家の「技術」ということになる。
その意味で、この磯崎氏の発言はとても腑に落ちるものだ。この小説が「そこ」から動き始めたことが納得出来る。だからといって、この小説の謎が解けたというわけではなく、作品自体は謎でありつづけているのだけど。ただ、この話を読んで、この小説はやはり「親子の話」なのかなあと感じた。それは、親子の話として要約できるということではなくて、「親子」という関係によって動き出し、スイッチが入り、その震動が持続し得るような燃料があたえられたもの、という意味なのだが。つまり、実際に子供がいる人だからこそ書けたというような小説なのだなあ、と。
●『肝心の子供』には、意外にも、磯崎氏の実際の経験が多く反映されているそうだ。例えば、ブッダの妻ヤショダラが城の敷地を水田で埋め尽くしてしまうという話(これはとてもうつくしいイメージだ)は、磯崎氏がアメリカへ出張した時が田植えの時期で、上空から見たら千葉や茨城のあたりが一面水浸しだった風景に感動したことによるものだったり、ブッダが出家する時に、結婚した時の銀の食器が錆びているのをみつける場面は、磯崎氏が結婚した時にもらったステンレスのスプーンが錆びていたことによるそうだ。しかし、これだけだと、では何故、その場面が、現代を生きている男が、飛行機から水田を見た場面や、スプーンの錆びを発見した場面として描かれるのではなく、ブッダに起こったこととして描かれたことによってリアリティが生まれるのかは説明できない。その点について、磯崎氏の次の発言がヒントになるように思われた。
《小説の冒頭に、ブッダが結婚式の朝に馬に乗って山を散策しに行くと、そこにサギを見つけるシーンがあるんですが、僕はここで「しばらくの間ふたりでそちらを見ていた」というように、馬とブッダを「ふたり」とあえて数えているんです。僕も十五年前、自分の結婚式の朝に犬を散歩に連れて行って、犬がサギを見つけて犬と僕でサギを見ていたことがあったんですけど、その時の「犬と僕がサギを見ている変な感じ」というのがですね、どうにも忘れられない。これは僕にとって、何というかリアルなんですよ。それで、こういうリアルなものっていうのは古代インドの小国の王子が経験してもおかしくないのではないか、と。じゃあそれは普遍的な感覚なんですねって言われると、あえてそうは言いたくないところもあるんです。ただ、何かそういう感じこそを書くべきだと思うんです。》
ぼくには、ここに、『肝心の子供』という小説の不思議さの秘密の一端があるように思われた。世界の内側に立っているのか外側にいるのか分らないような、不思議な距離感や温度の文章、というか、世界が、自分自身で自分を記述しつつ、それによって自分で自分を産出しているかのような文章の不思議さは、自分自身が実際に経験した「感じ」を、とても遠くにいる、古代インドの王子の経験として記述し直すということによって可能になったのではないだろうか。(考証が厳密でないとはいえ、ブッダが歴史上に実在した人物であるということの作用もあるのではないだろうか。)それによって、一つ一つの細部がリアルでありつつも、今、ここにある現実とは別の現実(世界)を中空に立ち上げるかのような文-小説が可能になったのではないだろうか。
●ぼくはこの日記をほとんど毎日書いているのだけど、毎日書けるということは、毎日書けるようなことしか書いていない、ということでもある。つまり、もっと深く考え込んでしまえば手がとまってしまうかもしれないのに、それを避けて、浅いところで妥協しているから書き進められる、と。しかしそれでも、毎日バットを振っていればまぐれの当たりもあるかもしれないし、それがまぐれであったとしても、「当たった」という事実が自分を変えてくれることもあるかもしれない、という希望によって書いているわけだ。でも、本当にそれで良いのか、と思わないでもない。それって、文を書くという行為をナメてるんじゃないのか、と。『肝心の子供』のような小説を読むと、そういうことを思ったりもする。