西荻窪に「beco cafe」というブックカフェがあって、その店長とスタッフが毎年、年間ベスト作品を決めているそうで、「群像」11月号に掲載された「セザンヌの犬」が今年のベスト作品に選ばれたという連絡がありました。ありがとうございます。うれしいです。いや、年間ベストって、本というくくりのなかでいろいろひっくるめて一年に一つということだから、かなりすごいことですよね。
●「恩寵」(磯崎憲一郎)をもう一度読み返した。もうちょっと細かく分析してみようかとも思ったけど、(今後そういうことをすることもあるかもしれないけど、今は)そういう感じでもないのか、と思った。『赤の他人の瓜二つ』から磯崎さんの小説は手数が多いというか、飛躍の多い感じになっていて、この連作もそんな感じだったのだけど、「恩寵」はすごくシンプルで(とはいっても、そんな単純ではなく、いろいろな「操作」を指摘することも出来るけど)、いままで読んだ磯崎さんの小説のなかでは一番シンプルかもしれない。ここまでシンプルでもいけるし、ここまで短くてもいけるんだという感じを、書きながら掴んでいる感じ。
7月号の「見張りの男」が『赤の他人…』からの流れを凝縮させた達成だとすれば、「恩寵」はまたそれとはちがった方向へジャンプしていて、それは『肝心の子供』に再度近づいてゆく感じでありつつ、それを質的にさらに深めている感じ。
昨日書いた、現世の語り手が前世たちを書いているような感じというのはつまり、過去の自分を前世の自分であるかのように見ているという感覚でもあるのかもしれない。≪(…)過去の自分を、まるでかつて世話になった恩人ででもあるかのように思い出す。≫この感じは、前に「現代思想」で西川アサキさんが書いていた、≪未来の自分と「悼み」という関係で繋がっている交代する自我群≫という感じにも近い気がする。
●「恩寵」はハワイへの移民たちの話で、歴史的な事実も(おそらく)かなり参照されているし、しかもそれはブッダとは違って近い歴史であるだけに、下手をすると歴史を自分に都合のよい物語へと我有化している感じ(歴史を自分の小説に利用している感じ)になってしまうと思う。でもここでは、歴史を参照しつつも歴史ではなく(かといって歴史と無縁だというわけでもなく)、歴史をネタにした自分の物語というわけでもない、まさに、(自分自身も来世から見られた前世である)現世の語り手が、前世たちを「語る」ことによって呼び出しているような、「語り」としての歴史であって、その「語り(輪廻の語り)」によってはじめて開かれるある時間の感覚の実現がなされているのだと思う。
この感じ近いものとしては小説では中上健次の『千年の愉楽』や『奇蹟』が思い浮かぶけど、中上健次ではまだ近代小説という枠組み(それは近代的な「時間」、あるいは「自我(中枢)」という枠組みのことでもある)が強く作用していて、例えば『千年の…』ではオリュウノオバという特権的な語り手を必要としていたし、『奇蹟』では「語り」の瓦解のようなことが起こっていた。
磯崎さんの「語り」は、そこを巧妙に、割合すんなりと突き抜けてゆく。読もうと思えばすんなり読めてしまう文章にもかかわらず、時間の感覚がどこかで底が抜けている(瓦解する、のと、底が抜ける、のとでは大分ちがう)。時間のスケール感みたいなものも、中上よりもずっと大きいというか、タガが外れている感じがする。中上の場合は、近代小説という枠組みがあったうえで、それと戦っている感じだけど、磯崎さんは別にそこでは戦っていないという感じなのか。