●物理学の一般向けのいろいろな解説書を読んでいると、対称性(対称性の破れ)という概念が外すことのできない、とても重要な概念だということが分かってくるのだけど(ラトゥールや中沢新一が言っているのとは少し違う、数学的な意味での対称性)、でもそれがどういうものなのかは物理系の解説書を読むだけではいまひとつよく分からなかった。だけど、イアン・スチュアートという数学者の書いた『もっとも美しい対称性』という本に、数学の歴史を概観しながら「対称性」という概念についての説明が分かりやすくされていて、なんというか、おぼろげに「こんな感じのものなのだろうか」というおおざっぱな方向性みたいなものは見えてきた気がする(そしてそれは大変興奮させられるものだ)。そして、対称性がどうして量子論において欠かせないのかということも、なんとなくはわかる気がしてきた。とはいえ、分かりやすく書かれたものに特有の分かりにくさというものがあって、やっぱり肝心なところでフォーカスがぴたっと決まらない(あくまで「ぼくの頭のなかで」ということだが)。ただ、どうやら、対称性を理解するためには「群」という概念を理解する必要があるらしいということなので、買ったまま放置してあった『代数的構造』(遠山啓)に挑戦してみようかという気になった(いや、まだ『もっとも美しい…』が途中なのだけど)。
●永瀬さんの「組立」がまたなんか面白そうなことをはじめている。とりあえず展覧会のことは何も決めずに、まず話をすることからはじめましょう、と。
http://kumitate.org/
ぼくがこれから書くことはきっと永瀬さんや上田さんの考えとか狙いとはかなり違っちゃってる、ぼく自身の関心に引きつけた話になると思うけど、こういう話の録音をアップするのはとても面白いと思った。
なんというのか、きちんとしたテキストとか、人前で話すことを前提とした対談とかではなく、ある程度は公開を意識しながらも、普通に会って話しているようなことを録音しておいて、それが面白ければ後で編集して出すという感じが面白い。テキストに起こすのではなく、録音というのも、その場の雰囲気が伝わっていいと思った。勿論、がっつりした批評とか研究とかは大事だと思うけど、美術に一番足りていないのはそれよりもむしろ、普通に話をすることの出来る場というか、普通に話すための言葉というか、ある程度無責任な感じでもいいので、あまり構えることなく、気楽に意見交換できるような言葉のあり方の訓練なのではないかという気がする(何より、ぼく自身にそれが足りてない)。
作家は作品に命かけちゃってるから、どうしても自分の作品への反応に自意識過剰になってしまうし、相手に過度に「誠実な対応」を求めてしまう(美術は、はじめから観客が少ないのでなおさら)。もちろん、ガチな論争を否定はしないし、そこから生まれてくるものもあるのかもしれないけど、作品に対する言葉のすべてに「ガチ」を要求するとみんな萎縮してしまって、ある程度の覚悟を決めないと発言できなくなって、そんな空気のなかでは、発言するのは「嫌な感じの議論好き」ばかりということにもなってしまいかねない(言葉の上での辻褄ばかりが優先されたり、とか)。それは逆に、気遣いが過剰になってしまって別の意味で息苦しくなるという効果もともなってしまう気がする。そこで抑圧された「毒」が匿名掲示板とかに流れ込む、みたいにもなる。人は(あるいは、場は)萎縮するよりも、少しくらい無責任な感じでも、ゆるいくらいの時の方が、面白いものが出てきやすいと思う。
(作家は作品をもっと「投げっぱなし」にした方がいいと思うし、感想を言う人もまた「言いっぱなし」くらいの方がいいように思う。投げっぱなしの作品と言いっぱなしの言葉が、作者とも観客とも関係のないところで自然に化学反応する、みたいな感じが実現できたらとてもいい気がする。これは二人の対話が「言いっぱなし」だと言っているわけではないです、むしろもっと言いっぱなしな感じでもいいんじゃないかくらいの感じです、念のため。)
きちんとしたものを書く(ちゃんと形にしなければというプレッシャーが強く作用し、内容を規定する)でもなく、人前で話す(何かしら面白いことを言わなければいう観客への配慮が強く作用し、内容を規定する)でもない、前もってはどう転ぶかわからない会話の録音−編集という形は、「作品に対する言葉(の発信)」の形式として、けっこう良いのではないかと思った(そのまま生で流す、ではなく、編集してある、というか、編集するこが前提とされている、というのはけっこう重要だと思う、後から編集されるということで、場のゆるさ――自由度の高さと言った方がいいかも――が許されるし、また、編集によってアウトプット時では過度なゆるさ――冗長さ――を回避できる、しかし文字起こしされるのではないから、もともとあったゆるさの雰囲気はある程度維持される)。「人の話」ってけっこう聞いちゃうものだし。
がっつりと、精密に追い込んでゆくような事柄は書かないと伝わらないと思うけど、逆に、書くこと(あるいはシンポジウムみたいな公的な場)で失われてしまうことが、こういう形だとすくい上げられるのではないか。
これは永瀬さんや上田さんとは意見が違っていると思うけど、ぼくは論争することは話をすることを不可能にすると思っている。勿論、過度に空気を読むこともまた、それとまったく同じことになるのだけど。この対話で上田さんは永瀬さんを「批判」しているわけだけど、別に永瀬さんを言い負かそう(説得しよう)としているのでもないし、自分の正しさを証明しようとしているのでもない感じなのは重要ではないだろうか。話をするというのは、はじめから「立場」が決定したうえで対戦するディベートでもないし、政治的なネゴシエーションでもオルグでもない、というところで、はじめて成立するのではないかと思う。ディベートネゴシエーションに意味がないと言っているのではなくて、それはそれでもちろん重要だけど、それは「話をする」こととは相容れないと思う。そして、作品について「話をすることができる」ような形式(言葉)を見つけることはとても重要なことだと思う。そしてその意味で、この形式は面白いんじゃないか、と。