●忙しかった用事がやっと終わった。
●「文學界」一月号の磯崎さんの連作(「恩寵」)がすごかった。見当違いの比較なのかもしれないし、あるいは逆にベタすぎる比較なのかしれないけど、テレンス・マリックの『天国の日々』とかを思わせる。しかも、文芸誌のページにしてたった12ページの作品なのに、『天国の日々』よりスケールが大きい。この、外から見た小ささ(12ページ)と内側から見た大きさのギャップがとんでもない。この感じは、磯崎さんの最初の小説(『肝心の子供』)に近いのかもしれない。これは、歴史でもないし神話でもないし物語でもないし、一体何なのだろうか、という感じが…。
等身大の流れに寄り添っているわけではないけど、といって、時間や空間を俯瞰しているのでもない。時間の内側にいるわけではないが、外に立っているというのとも違う。神の位置ではないとしても、人の死後からの視線とは言えるのかもしれない。でも、死後と言っても、誰か特定の人の死後というわけではない感じ。いや、あるいは、現在を生きている誰かが、死後(前世)として過去を見ている感じなのかもしれない。語り手は、死後からの視点で過去を語っているけど、同時に、多数の前世の生からの視線を意識しつつ語っているということでもある気がする。語り手は前世の出来事として過去を語り、そこで語られている人物たちもまた、自分たちが死後の語りによって語られることで存在していることを意識している、という感じ。だとすれば前世の存在である人物たちもまた、今、生きて語っている語り手を見ながら生きているとも言える。
語り手は前世を語り、語られる前世の者たちも語り手の方を見、語られていることを意識する時、現在を生きる語り手もまた来世によって語られる者であることを意識し、その折り返しの相互関係が語りの特権性(視点、あるいは現在、位置)を消失させ、複数の生たち(前世や来世たち)の関係そのものが語っているかのような状態が生まれる。この関係による語りが、外から見た小ささのなかに「大きさ」をひろげているのではないだろうか。
小さいもののなかに大きな広がりを編み込むということは、情報を圧縮するとか解像度を上げるとかいうこととは全然別のことなのだということが実例として示されているように思った。