●今年最後の締め切りの原稿を送ってから、「電車道」(磯崎憲一郎)を最初から読み返しはじめた。とりあえず今日は連載六回目まで。
連載の二回目が特にすごいと思った。これをはじめて読んだ時は、ちょっとクラシックな趣味に方にはしり過ぎているようにも感じたのだけど、あらためて読み直すと、イメージの凝縮力に舌を巻く感じで、谷崎とか、もうそういうレベルなんじゃないかと思った。教科書に載るような小説ではないか、と。
磯崎さんの小説は、基本的にはフレーズの力で成り立っているように思う(ひねりのある息の長いイメージを生むフレーズと、切って捨てる――読者が判断し吟味するより速く強引に懐に押し込んでくる――ような断言の強いアタックをもつフレーズの両者があり、その混在がリズムをつくる)。フレーズとその展開、繰り返し、そして唐突な切断や方向転換で、読者を前のめりに乗っけたり、いなしたりしながら、乗っけたりズラしたりの繰り返しがまた波のようになって、小説の流れに巻き込んでゆく感じがあって、短い単位としてまとまっている場合、上手くいけばキレキレで濃縮されたイメージをもつ、ほぼ完璧みたいな感じのものになるのだけど、その分、小説を長く持続させるのはけっこう難しいところがあったと思う。長くなると、凝縮されすぎていて読む方として息を着くところがなくて疲れてしまうと感じることもある。
でも、歴史(日本の近代史)に取材することで、持続の根拠をある程度テキストの外に求めることが出来ること(歴史が背景としてあることで、個々のエピソードの背後に共通した「地」があるように予感させ易い、というか)と、あと、歴史的な(ある程度説明的な)記述をすることで密度がやや緩むので上手く緩急がつくということもあって、もともとの磯崎タッチを変えることなく、無理なく長く持続できる、というやり方をあみだしつつある感じがする。おそらくこの感じは、前作『往古来今』の最後のエピソードのところで掴まれたのではないかと思う。将来、それこそガルシア=マルケスみたいな大長編が書けるようになるための力を、じわじわとつけようとしているのではいか、と。