●「電車道」(磯崎憲一郎)、連載七回目から十二回目(完結)まで読んだ。
●これは日本の近代百年の話であり、そしてそれは磯崎さんの世代の人物まで来たところで終る。さらにこれは、「家を出る」人たちの話で、後に私立学校の校長となる男が家を出るところら始まり、後に電鉄会社の社長になる男が家を出て、後に女優になる女が家を出る。最後に出てくる磯崎さんの世代の男は未だ家を出ないままで終るが、この男もまた、家を出る人物の系譜にあると思われる。
連載二回目の部分だけが全体の流れのどこにも位置づけられないのだけど、この部分の凝集されたイメージが全体に強く影を落とすように影響しているようにも感じられる。
●物語は単線的ではなく、あちこちに飛ぶが、とはいえ、今までの作品よりは構成が見えやすい。多少の前後はあっても基本的に時間は百年前から現在に向けて流れるし、連載二回目のような例外はあっても、主な舞台は空間的にも限定されている。登場人物たちの関係性もある程度は分かるようになっている。
●近代の歴史が参照されるが、それはあくまで背景であり、しかしそれは、歴史というよりも掟のようなものとしてあるように感じた。歴史は、因果関係の連鎖というより、既に書かれている決定事項としてあり、それが随時、物語のなかに外から差し込まれてくるという感じ。
一方に、歴史という既に書かれた確定事項の連なりがあり、他方に、時間を一方方向へと押し流す、とても強い力がある。歴史的事実は、強い力に押されて否応もなく前に進む時間の経路が、必ずそこを通過することが定められている中継点のようだ。掟=中継点としての歴史と、時間を押し流す力とは別物であるように思われる。
●登場人物たちは、歴史という文脈、時間という止められない流れのなかに否応なく位置づけられる。しかし、人物たちの前に訪れる一つ一つの出来事や、人物たちが下す一つ一つの決断は、必ずしも文脈や流れに規定されるものではない。例えば、どの位置にいる人物にとっても、犬は常に身近で親しいものとして繰り返し現われ、世間や会社や学校は常に失望をもたらす場であり、運命的な異性との邂逅を避けることは出来ない。
●田舎の土地を二束三文で買って、そこに鉄道を通して価値をつくり、その土地を高く売る。「近代」とはそういうことで、その程度のことだ。そんなことに大した意味があるとは思えないし、その過程で多くのものが踏みにじられるのだが、その流れを止めることは誰にも出来ないし、(たとえ「家を出た」としても)その外に出ることも出来ない。銀行の仕事に嫌気がさして会社を辞め、選挙に出たが落選した男は、伊豆の温泉地にひきこもるが、その隠遁の地で「大きな流れ」に触れてしまう。それによって彼は、電鉄会社を起こし、この「大きな流れ」に奉仕するような一生を過ごすことを強いられる。
一方、彼は、温泉地で療養している結核のイギリス人女性と出会い、彼女の死まで彼女と共に過ごす。この出会いもまた、男にとって避けられないものであり、彼女の死まで彼女と共にいることは強いられた運命のようなものだ。
どちらも男にとって、巻き込まれ、強いられた、避けがたいものだと言えるが、前者と後者とでは違っている。前者は、時間を前へ押し出す強い力にかかわるが、後者は、むしろ時間の外にあって反復するものだと言える。この小説で、様々なところに「犬」があらわれるのと同様に、運命の相手との抗い難い邂逅は、この男の娘にも、孫にも、反復的に訪れる。つまり、後者においては、その人物が歴史的にどの位置にいようとあまり関係がない(わたしとあなたに本質的な違いはない、みんな「わたし」である)が、前者は、その人物が歴史的文脈のどの位置にいるのかで違ってくることがらだと言える(わたしとあなたは交換できない)。
(そして前者は、しばしば後者を踏みにじる。かけがえのない伊豆の温泉地を守ろうとする男の行為が、まったく逆の結果を生んでしまう、など。)
人は、この、二種類の異なる、相容れない「強いられたもの」のなかで、それらに巻き込まれて生きて、死ぬ。この小説を読んで一番つよく感じたのは、この感触だった。
●あと、もう一つ、この小説では「犬」と同じくらい「むささび」が重要だと思った。犬は常に人と共にいる、親しくて貴重な存在だが、むささびは、基本的に人とは別の系列にいて、人と一瞬だけ交わるが、またすぐ別の方向へと動いてゆく。男と妻に育てられたむささびが、人との記憶を一瞬にして忘れて、むささびの世界へ帰ってゆく場面は忘れがたい。