磯崎憲一郎電車道」(「新潮」一月号)の連載一回目。出だしでは、前の作品の延長みたいな感じかと思ったけど、だんだん別の方向へずれてゆく。焦点となる人物が入れ替わってゆくというのではなく、人物とはあまり関係なく焦点がずれてゆく。今までの磯崎さんの小説では、展開の読めなさはそのまま空間的なひろがりの見えなさだったように思うけど、ここでは、空間的な見晴らしの良さと展開の読めなさが両立しているように思った。川、洞窟、崖、斜面、山、平地。
(空間的、時間的な飛躍がない――細かい断絶や齟齬はあっても一応連続的な時空が舞台として思い描ける――分、関心や焦点移動の運動性の自由度がより増している感じがする。)
(1)事物の空間的な配置、(2)出来事の展開(出来事や事物に対する焦点の時間的、継起的な移動)、(3)出来事の流れとは別の位相にある、言葉を発している話者の情動の流れ――あるいは小説世界の基底としてある言葉そのものの感情の流れ、という三つくらいの層が相互に干渉することで、展開が形作られているように感じられた。たとえば、話者の情動の流れ(変化)が、出来事のありきたりな展開や因果関係を断ち切って飛躍をもたらしたり、あるいは逆に、事物の因果的、連想的関連や空間上の配置が、話者の情動の連続性を断ち切り、情動を飛躍させ、調子を変化させることもある、という風に。三つの層が絡まり合うことで、どれか特定の層には還元されない複雑な展開が生まれる、というような。
一応、明治から大正への移行期くらいの時期が舞台となっているようだけど、前作とは違い、それが「歴史」として意識されているというより、今ここと通底しつつも、今こことは別の時間、空間としての「過去」が問題になっているという感じだと思った。
読み進んでいるうちにタイトルのことなど意識から消えてしまうのだけど、最後になってタイトルが唐突に回帰してきて驚いた(ただ、このタイトルは相撲の決まり手を意味するらしいけど)。磯崎さんの小説はだいたいラストにびっくりするオチに行き着くのだが、このラストにも驚いた。
前の小説では固有名を用いることでかえって人物の匿名性を際だたせる感じがあったと思うけど、ここでは固有名はなく、さらに一層、各人物の匿名的な感じが強くなっているように感じた。村の子供たちの記述は、ちょっと福永信の書くA、B、C、Dの子供たちにも近づいている感じがした。
●この小説が今後どこに向かっていこうとしているのか、現時点ではまったく読めない感じ。