●一ヶ月くらいつづいた引っ越しのごたごたも収束しつつあり、少し落ち着いてきたので、ようやく『カフカ式練習帳』(保坂和志)を読めた。面白かった。久々の新作小説だけど、読む前に想像していたよりずっと「保坂和志の長編小説」という感じだった。断片の記されたノート(帳)というより、一つの長編小説のような感じが強かったのはなぜなのだろうか。
24に章立てされていて、それぞれの章では断片がランダムに並んでいるけど、一章から二四章までは連載された順番であり、全体としては時間の流れに「まとまり」と「方向」が感じられることや、猫の世話やカラス、隣の廃屋の話など、繰り返し現れる主題の連続性があることなどもその理由としてあるとは思う。でもそれよりも、一冊を通じて、(転調や切断を含みつつも)ある一定の内的な響きの持続が感じられるからではないだろうか。
●22番目の章の頭に、保坂さんとしては珍しい、コンピューターのデータ容量をめぐるSF的な断片が置かれているのだけど、この断片が小説全体の一つのクライマックスになっているように感じたことも、これを一つの長編のように思った理由の一つかもしれない。この断片が全体を代表しているというのでも、諸断片を束ねるメタ断片になっているというのでもないし、この断片がほかの断片に比べて飛び抜けて面白いというのともちょっと違う。でも、この断片は、ここまで書かれたいくつもの断片が書かれる過程の時間が前提としてあって、それがなければ出てこなかったのではないかと思わせるという点で、他のいくつもの諸断片の層の集積の中から(下から、背後から)生まれてきたように感じられた。もちろん、他の断片たちも相互に関係をもつのだろうけど(内容的な関連ということだけでなく、内容的には直接関係はなくても、あの断片を書いたことの刺激によってこの断片が出てきた、というような意味での潜在的な相互影響も含む)、22章めの冒頭の断片は、とても多くの断片との深い相互振動によって、この位置で書かれた、というように感じられたということ。《これを読む西暦二000年以前の人にとって……》というような(リニアな時間上ではあり得ない)文を成立させる語りの位置(視点)が可能であることに驚くのだが、このような位置は、いくつもの断片でこころみられてきた様々な「語り」と「語られるもの」との距離感や位置関係のバリエーションが書かれることのなかで生まれてきたのではないだろうかと感じた。
この断片はそれと同時に、保坂和志という作家が今まで書いてきた小説に共通している主題というか響きのようなものの持続も感じられ(表層的に分かりやすい類似として『季節の記憶』のビデオテープとかがまず連想される)、その進展の現時点での突端であるようにも感じた。『カフカ式…』の中頃には、この断片の先触れであるかのようなタイムマシンについての記述もあった。
●とはいえ、これらが断片として書かれていることの意味は軽くない。それは風通しの良さであり、もっといえば露骨さとして現れていると思う。断片は露骨なのだ。小説中に《変態はイデオロギーで、露骨は観察だから》という言葉も書かれていた。変態とはかっちりとした構築(様式)であるのに対して、露骨はそのほころびから立ち上がってくるものの方に注目する。もともと保坂和志の小説は「イデオロギーとしての変態」からは最も遠い感じがするものだったと思うけど、この小説ではもう一方の「露骨さ」が際だっているように思う。この小説は、露骨でズケズケとしたエロ親父的感触を隠そうとしていないと思うのだが、しかしもう一方で、童貞的ともいえる厳しい潔癖性が根底にあるようにも思えて、両者が同居している感じが面白い。「露骨かつ潔癖」、これはおそらく「変態かつ禁欲的」の逆向きなのではないか(潔癖が露骨を導き、禁欲が変態を導く、のではないだろうか)。露骨と潔癖の同居と断片という形式はとても密接に関係しているように感じられる。露骨であるということは清々しいということでもある。
●これは保坂和志という作家の資質なのか、それともそれを読んでいるぼく自身の好みが影響しているのか、数行の短い断片よりも、一定以上の長さを持った断片を面白く感じた。「夜中に山梨を出た」という引っ越しの断片、夜が空間をゆがませるという「音」についての断片、駅にいた娘が汗をかいているという断片、猫と人間の寿命が逆だったらという断片、カヤの木から落ちる断片、「ハト」の話から「波の子」の話へと展開する断片などが面白く、ジャイアント馬場好きの下川くんと野球部の成瀬のことがとても気になった。だが一番好きなのは、PKO活動で海外に赴任している兄のビデオを兄の愛人が家族に観せるという断片。たぶんここには奇跡が書かれている。
●ぼくはこの本を普通に読んだ。普通にというのは、普通に小説を読む感じで読んだということ。この小説を構成する断片はそれぞれ、エッセイのように作者=話者であるような書き方がされていたり、作者を思わせる人物が「彼」や「夫」とされていたり、固有名がつけられていたり、まったく虚構の人物と思われる話者がたてられていたりして、語りの立ち方(構造)がそれぞれ異なるし、書かれている事柄も、話者の主張のようなものだったり、身辺雑記のようなものだったり、虚構性が高い出来事だったり、もともとあるものの書き換えだったり、引用だったりする。諸断片は、構成的に配置されるのではなく、月ごとにまとめられ、ランダムに併置される。断片たちは、内容的な連続性、主題的な共鳴性があるものもあるが、それが強調されたり、隠された秘密の関係が特ににおわされたりはしない。つまり、個々の断片の独立性が高く、行き当たりばったり的で、この一冊に共通する「共通の地平」のようなものはさし当たり見つからない。一つの断片から次の断片へと移るとき、その都度、いわば「別の時空」が立ち上がる(そのようにして読む構えを変えていかなければいけない)。しかし、そうであるにもかかわらず、読み進めてゆく呼吸としては、普通に、限定された人物たちや安定した時空構造をもつ語りで、連続的な事件の経過を追うような小説とあまりかわらない調子で読むことができた。
いや、そうではないか。いわゆるかっちりと書かれた小説(というようなものを最近あまり読んでいないが)よりも、ずっと自然に読むことができた、ということか。それはつまり、我々が普段暮らしている時空の構造、まさに我々そのものである「わたし」の構造が、実際には決して滑らかな連続性をもっているものではないということなのではないだろうか。ある共通した地平(地)のなかで対象への距離が伸縮したり注目が移動したりするのではなく、わたしがわたしに対して持つ距離感や関係性、そしてわたしを形作るとともに、わたしと物との関係の原器となる時空構造(マトリックス)が、その都度、まったく別のアルゴリズムによって別様に立ち上がり、それがまた別のアルゴリズムへと非連続的に移行してゆくということが繰り返されているということのではないだろうか。
それは逆からみれば、一見安定した語りの構造をもっているように感じられる小説でも、面白いものであれば、そこに断片的、非連続的なアルゴリズム(時空構造)の変化が埋め込まれているということではないか。そして、断片の「露骨さ」とは、非連続的な移行を、一見滑らかな変化にみせるオブラートに包むことなく提示してしまうということではないだろうか。だが、断片と断片とが本当にまったく切り離されてつながらないとしたら、それらを「一つの小説」という呼吸で読むことはできなくなってしまう(あるいはそれを読む「一人のわたし」が成立しなくなってしまう)。そこにはおそらく、切断することによって接続するという逆接的な機能があるのだと感じられる。
(おそらく、世界の、深層での共鳴のような出来事が、きっとあるのだろうと思う。しかし、深層での共鳴は、たとえばテマティズム的な表層におけるイメージの共鳴-操作とは違うように思う。深層における共鳴は、表層におけるマトリクス(地)の切断-離接によって可能になるという側面があるのではないか。地平-地の非連続性が、かえって世界-宇宙の連続性を響かせるというような。)
●以下は、コンピューターの記憶容量についての断片からの引用。
《すべての人間の一生が等しく記録されるということは、人間の大小、つまり偉大かそうでないかの差をなくす。人々は自分の一生が人から記録されるに値しないことに悩み、暴力も犯罪もそこに起因していた。生涯記録が実現すると、人は自分の人生に対する焦燥感を抱かなくなった。自分の人生が誰からも顧みられないものであるということがこれほど人を苦しめていたとは、生涯記録プロジェクトに関わったメンバー(数千人規模だ)の誰一人、想像しなかったことだった。
そしてもう一つ、ここまでの長い前段がなければ、生涯記録以前の人々に決して理解されない、出来事が起こった。》
《メモリーは現在を記録しつくしたため、勝手に過去を記録しはじめた。つまり、いっさい記録の残っていない過去の人や動植物や空間を記録しはじめた。一つのドーム内の全事象を記録しつくした記録装置が勝手にドームの外まで記録するように、現在を記録しつくした生涯記録は過去へ過去へと触手を伸ばしている。生命の誕生と同じく、この原因を人間は説明できない。事象のプロセスをただ記述するのみだ。
いっさい記録されていなかった過去まで記録することは未来が過去に働きかけることにならないか? なる。現になっているのだから。なってはいけないというのが、たんに思いこみにすぎなかったことが今、明らかになりつつあるし、現にこの文書が西暦二000年の入り口に届きつつある。》
●前半の部分を書き写しながら、これって「猫と人間の寿命が逆転したら…」という話ともつながるなあと気づいた。だがそれが、現在→過去という時間の逆行(双方向性)とともに書かれているところがちょっと違うかと思った。
ここで不思議なのが、記録が過去にまでさかのぼりつづけていることと、「この文書」が二000年まで届きつつあることの関係がよくわからなくて、「記録が過去に向かう」ことがそのまま「現在からのメッセージが過去へと届く」ことにつながっている。一つ言えるのは、「記録が過去に向かう」という出来事をきっかけにして、「現在から過去へと働きかけること」が可能になり、そのことが「この文書」を書いている何者か(たんに狂人かもしれないのだが)の時間感覚に変容をもたらしたということだろうか。そしてそのような感覚が、きっちりと構築された物語によってではなく、《こんなことをわざわざ書くのは、これを読む西暦二000年以前の人にとって、メガ、ギガ、テラ、ましてその上のペタ(10の15乗)、エクサ(10の18乗)、ゼタ(10の21乗)という我々にとってありふれた単位が、彼らにはまったく馴染みがないものだからだ》というぶっきらぼうな文によって表現されているところが面白いと思う。この文自体は(引用部分の前の文とは違って)、「我々」と書かれている話者と同時代人(テラやゼタに馴染んでいる人たち)に向けた「言い訳」であるのだから、過去の人に向けて書かれているわけではない。そもそも、「この文書」全体が、誰に向けて何の目的で書かれているのかがよくわからない。「我々」と同時代人に向けて書かれているのか、二000年以前の人に向けて書かれているのか、それとも二0一二年前後にいる「この小説の読者」に向けて書かれているのかわからない形になっていて、だから結局、二0一二年前後にいる狂人によって書かれているのだという結論もあり得るのだけど、それの可能性も含め、語りの帰属先が確定できない語りとして語られている(しかもそれを「普通に読めてしまう」)ところにリアリティがあるのだと思う。
●「語りの帰属先が確定できない」と書いたが、ここで「帰属先」を探ろうとする読みは、「この文書」全体が「一つの合理的な秩序(地-地平)」のなかで書かれていることを前提にするような読み方となる。しかしこの小説は、「一つの断片」の中でさえも(時には一つの文の内部でさえ)「地」が非連続的に変化していることがある。運動というのは、ある基底的な空間があって、その座標のなかを事物が移動する(空間があり、事物があり、そこに運動が付け加えられる)ということではなく、事物の移動によって時空の座標やその目盛までが変化してしまうということであるとすれば(運動とは事物の変化であり時空の変化でもある)、そのような運動はそもそも「帰属先を特定」しようとする読み方では捉えられないということになる。
繰り返すが、しかしそれでもなお、そのようにして書かれたものが「無秩序」になるのではなく、地の非連続性が宇宙の連続性を感じさせるというところが不思議なのだ。
●今日のドローイング。青と二種類の緑で描いた。